それに米須貝塚の調査によれば、1800~2000年前の状況が伺えるとされている。
でも貝塚人がグスク時代の人々と同一だった
かどうかは定かではない。出土品からして漁労活動が活発であったことは推定される、と『米須字誌』(1992年発刊 米須字誌編集委員会)に記述されている。
この貝塚は、1956年10月県指定史跡に指定されているが、その遺跡とは別に米須グスクの遺跡がある。この米須グスク時代は12~16世紀と考えられている。このグスクは部落の北側の丘陵上にあり、北側は絶崖(約15メートル)南は緩斜面になっている。城門は南向き、上城と西向き下城の2段形式の城で沖縄ではあまり例がない、と言われている。
『琉球国旧記』(1731年)には、「米次城」と記され、『琉球国由来記』(1713年)には城内に「米次城(クミシグスク)の嶽(タキ)」という御嶽があったことも記述されている。その城内からの遺物として青磁、白磁、土器、輸入陶磁器が採取されている。
築城時期は三山分立時代(1314~1429)山南王(南山)の居住する大里城の出城として米須按司が築城したと推定されている。
『沖縄の城跡』(新城徳祐著)によると、米須按司は南山王最後の王「他魯毎(タルミィ)」が中山王尚巴志に亡ぼされた1429年に米須按司も共に亡んだであろうが、これまでに米須按司は数代続いたことが推測されると言われている。「おもろそうし」や「球陽外巻の遺老説伝」から米須按司は相当に勢力があって、しかも徳望の高い按司たちが居城したであろうことがわかるとしてある。
この集落(米須)は、沖縄本島南端喜屋武岬から太平洋に面し並列した地点にあり、その起源はさだかでない。が、しかし1956年国分直一氏指導で琉球大学史学科学生らが発掘調査した結果、出土品には具器、魚骨、土器、石器などがあり、弥生時代の貝塚といわれ、その頃からそこに人が在住していたことが証拠づけられている。
以上述べた「米須」の地名の由来は、12世紀のグスク時代に築城されたと思われる「米須グスク」、と米須(米次(クミシ)按司が居城する「米須邑(くめす)」がおもろに謡われていることに示されているように、その頃は「米次(クミシ)」または「米須」の両方が使われてきたが、1908年(明41年)以降摩文仁村字米須にかわり現在に至っている。
2 気 候
沖縄本島は亜熱帯に属し温暖で年平均気温22・3度、最高平均25・2度、最低平均20度、それだけに雨も多く温暖多湿である。
ただ、台風(暴風)が多いことは風土や自然環境から起こる自然現象で仕方がない。時たま時速50~60メートルの台風が吹き荒れることもあり、家屋や農産物に大きな被害を及ぼす場合があり、地元住民にとって家屋の強化が問われ近年は木造からコンクリート住宅に変りつつある。
年間台風の発生接近は強弱20回以上と云われその回数と強弱が住民の関心の的である。
3 職 業
部落住民の90%以上が農業者であった。しかも狭い農地に人口は増大するので農閑期には本土の大都市へ、また女性は紡績工場に出稼ぎによく行っていた。同時に県内都市地区に日雇い人夫に出る人々もいて、長男本位の狭少な貧乏農家がほとんどだった。部落の前方500メートルは広い海岸を前にしながら何故か漁業する人はいなかっ
た。おそらく漁業に適する漁場がなかったのかも知れない。