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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(14)

 ただ1家族の残留者
                                                    
 筆者は、海興の植民地づくりは、キロンボが最後であった‥‥と長く思い込んでいた。先に記した様な体たらくからすれば、さらに新設したとは、想定できなかったし、そういう記録も目にしなかったからである。
 ところが、その後、何かの資料を読んでいた時、ジュキアに海興の植民地があったという記事を見つけた。創立の時期は1932年となっていた。が、記事は僅か2、3行で、それ以上のことは何も触れていなかった。
 ジュキア、ここも今はムニシピオになっておるが、当時はイグアッペの一地域であった。セッテ・バーラスの東隣りに位置し、中央部をリベイラ河の支流リオ・ジュキアが流れている。
 右の記事が事実とすれば、そこに州有地があって、海興は払下げを受けたのであろう。
 桂、レジストロ、セッテ・バーラス、キロンボとリベイラ河を遡りつつ造られた植民地から成る開発前線は、支流に逸れて伸びたことになる。
 2013年1月、筆者は、その植民地を探してジュキアを訪れた。現地で誰か事情通に会えば、何か判るだろう──という程度の当てしかなかった。それを、この取材に同行してくれた人に話すと、
 「それではアンコウさんの処へ行ってみましょう」
 と言う。ジュキアに長く住んでいる人だという。筆者は(アンコウとは、何国系の人だろうか?)と思ったが、セドロ区にあるその家に着くと、日本人が現れた。
 ご当人から貰った名刺を見ると、金城安光とあった。1921(大10)年の生まれで、15歳で移住してきて、1938年、17歳の時から、ここで生活しているという。
 92歳になるわけだが、至極、元気そうだった。
 筆者が「ジュキアの昔の日本人のことを取材のため‥‥」と言いかけると、話の続きをひったくる様にして「ウン、古谷さんが居た」と早口で話し始めた。
 戦前、駐アルゼンチン公使を務め、退官後、ブラジルに住んだ古谷重綱のことだ──とは、直ぐ察しがついた。その古谷が戦前、バナナの輸出を大きくやり、リベイラ流域二カ所に大型のバナナ園を所有していたことは、筆者も知っていた。内一カ所が、ここにあったのである。
 アンコウさんの口からは、次々と昔話が飛び出しそうな気配だった。日本語を話す機会がないので、何でもよいから喋りたくてたまらない、という様子だった。
 ところが、筆者が「海興の植民地が、ジュキアにあった筈ですが‥‥」と質問すると、急に言葉数が少なくなった。
 こういう風に、地元の人でも知らない「消えてしまった植民地」は、ブラジル中にゴマンとある。
 もっとも──後で判ったことだが──セドロ区は、その頃は、ジュキアとは別の行政区(セドロ駅、次項参照)であったから、そのためもあろう。
 アンコウさんの家族も加わって、アレコレ相談している内に「マッシモさんなら、知っているかもしれない」ということになった。
 これも珍しい名であったが、教えられた住所を探して行くと、BR116沿いの土地で、バナナ作りをしている日系人が居た。マッシモ安田さんだった。
 「このジュキアに、昔、海興の植民地があった筈なんですが、ご存知ないでしょうか?」と訊ねると、なんと、こういう返事だった。
 「ここが、そうです」
 ポウゾ・アルトという名称で、30家族くらい入ったが、1960年代以降、殆ど居なくなり、マッシモさん一家だけが残っているという。
 マッシモさんは1932年、ここジュキアで生まれた。父親は安田治平という岐阜県人であった。
 (筆者が)サンパウロに戻ってから1965年刊の日系紳士録を開いてみると、出ていた。1914年、海興の技師として桂植民地に入り、10年後ジュキアに移って運送業を営み、1927年からバナナ園を経営‥‥とあった。
 当時、ここはジュキア線の終着駅で、バナナの生産地、集荷地でもあった。海興が植民地をつくったのは、安田のジュキア入りより8年後のことである。先住者の安田は、これに協力したという。
 この人は当時から同胞の世話役であり、後に地元の日本人会会長を務めている。息子のマッシモさんが、この植民地の住人となったのは、ごく自然のことであったようだ。
 入植者たちはバナナの他、種々の作物を手掛けたが、結局、転出して行った。経済的理由であったという。筆者は、ここは立地条件、地形、地味は海興の他の植民地より、ずっと良い様に思えた。
 だから何故そうなったのか、疑問だった。その答えについては次項で記す。
 「ジュキアには、海興の植民地は、もう一カ所あって、コロニア・サントという名で、セッテ・バーラスに向かう道の途中にありました」と、マッシモさんが教えてくれた。
 コロニア・サントは、一時は60家族居って、主に養鶏を営んでいた。卵はカロッサでリオ・ジュキアの岸まで運び、船でジュキア駅へ、さらに汽車でサントスやサンパウロに送られていた。植民地には楽団があり、フェスタの折には活躍した。スポーツも盛んだった。
 が、ここもポウゾ・アルトと同じ結果になった。原因も時期も、ほぼ同じだったようである。現地へ行ってみたかったが、時間がなかった。おそらく残留者は居ないか、それに近い数であろう。
 最後に治安について訊ねてみた。すると「来ましたヨ、強盗が。ウチの車と銃を持って行った。車は後で見つかった」と笑いながら答えた。外見は柔和だが、肝の座った人なのであろう。
 1934年、首都リオデジャネイロで開催中の新憲法制定議会で、排日的な条文が成立した。その中に、外国人だけの集中居住を禁ずる項目があった。
 4年後、施行細則が出、骨抜きになったが、日本側のブラジル熱は、すでに冷めていた。ジュキア以後、海興が植民地を新設した形跡はない。