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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(5)

 8月には(旧暦7月15日)盆踊りがあり、以前は青年たちにより夜半まで鉦や太鼓を打ち鳴らして部落中の家々を廻曲したものだが、近年は青年エイサー大会に遷化して、その騒擾さが改善されている。
 9月の旧暦8月15日には毎年の年中行事ではないが、村芝居がよく開催される。部落の工事落成とか節目の祝賀行事を利用して伝統芸能を若者たちに継承する意味も含めて伝統芸能公演が折りある毎に催される。
 これは旧暦8月15日に行う習慣がある。従って伝統芸能音楽・舞踊に趣味ある人々はそれぞれの塾か研究所などで研修を重ねている。
 その他に沖縄角力や部落対抗陸上競技や家族慰安運動会などのスポーツ行事が催される。それに学童たちにとって一つの励みとなる部落主催の学事奨励会があった。
 今日なお行ってはいるかどうかは知らない。同じく毎年行われる高齢者(85歳、88歳)の合同生年祝賀会は長寿を讃える意味で有意義な年中行事と言える。ブラジルの敬老会と同意義である。

6 ジョン万次郎について

 ジョン万次郎(1827/1/1~1898/11/12)は、土佐藩(高知県)中ノ浜村の漁民の家に生まれ、1841年1月15歳の時、出漁中荒らしに遭難し無人島・鳥の島に漂着した。
 幸い通りかかった米国捕鯨船に発見され運よく救助された。以後その船で世界各地を航海し、10年間に亘り、英語は勿論、捕鯨、航海、測量などの技術を修得し、1851年2月3日、わが摩文仁間切り小渡浜に上陸した。
 地名こそ小渡浜だが米須の海岸であり、そこに早朝上陸した。当時日本は鎖国中で、日本に上陸できず沖縄を選んだわけだ。
 しかも直ぐには土佐に帰れず、豊見城間切り翁長に6カ月滞在した。同年7月薩摩に護送され10月に故郷土佐に無事帰還した。以後、中浜万次郎と名乗り、日本に於ける欧米文化摂取の指導者として活躍した。
 幕末には幕臣として、また1860年には幕府の渡米使節の通訳として日本の国家に対し活躍したり、明治になってからは開成学校(後東京帝大、今日の東京大学)の教授を務めたりで名声がある。
 そのジョン万次郎の帰国が奇想天外にも米須海岸上陸を選んだのは偶然の一致であり、人情豊かな米須人(クミシンチュー)達が温かく迎え入れ、糸満経由那覇まで案内したとのことである。
 近年米国東部のフェアープン町役所でジョン万次郎友好記念会館がオープンした。例の捕鯨船長ホイット・フィルドの家が荒れ果てた状態で売りに出されていたのを日本の聖路加国際病院の日野原重明理事長が募金を集めて買い取り修復して、日米友好のシンボルを目指し「記念館」として町に寄贈したと云うことである。
 なお糸満には、上陸ゆかりの地として「ジョン万次郎研究会」の研究グループも結成されている。

7 蒲助浜・用之助港

 米須の海岸は小渡部落の前浜まで続いて、その境界は恐らくないのではないかと思う。その浜と港の起源は、日本政府から摩文仁間切に大旱魃救援金として1800円の支援金が支給された。
 明治37年(1904年)沖縄は未曾有の大旱魃があった。時の島尻群長斉藤用之助が企画し、その資金を小渡浜に港を開削、農業一筋では自然災害に不安がつきないので漁業併行で不安解消を考慮したのであった。