ジュキア線
本稿②で記した様に、リベイラ流域の邦人の開発前線は、移植民会社が造った植民地と自然に生まれた集団地によって、構成されていた。前者については、前項までに概説した。
後者はジュキア線(の駅の周辺)にできた。筆者は、現地を取材したかったが、残念ながらできなかった。ために資料類を参考に、ごく簡単にまとめておく。
ジュキア線は1912年、サントスを始発駅として起工され、海岸にそって西南へ線路を延ばし、ペルイーベから内陸部に入り、西へ、西南へと方向を変えつつ、1915年、ジュキアに達した。途中、駅を作りつつ‥‥。
内陸部には、リベイラ河の支流のリオ・ジュキアが流れている。そのまた支流も多い。駅は──山が多かったため──川沿いの平地を選んでつくられた。周辺に各地から多数の農業者がやってきて、開拓し営農した。邦人の姿も少なくなかったが、沖縄県人が殆どを占めていた。
同県人の場合、誰かが入って上手く行きそうだと判ると、縁者たちがやってきた。自然、集団地が生まれた。最初のそれが、ペルイーベの次の駅アナ・ジアスである。
付記しておくと、当時は、こうした駅を中心にできた新開地は、人口は極めて少なかったが一個の行政区であり、区長もいた。区の名称は駅名が使われた。
つまりジュキア線アナ・ジアス駅というと──駅舎の他──周辺の小社会を指した。従って住民は自分の住所・姓名を「アナ・ジアス駅 誰某」と名乗った。
アナ・ジアス駅に邦人が入ったのは、1913年3月のことである。植民地第一号の桂の場合は同年11月であるから、それより半年以上、早かった。
彼らは、ジュキア線の線路の敷設現場で働いていた沖縄県人で、笠戸丸移民であった。人数については6人から7、8、9人説まである。
笠戸丸移民は──その大部分が配耕先から逃亡したり追放されたりしたが──沖縄県人の場合、サントスへの移動が多かった。当初は、鉄道工夫や港湾人夫として賃稼ぎをした。
右のアナ・ジアス組は、米を作り、海岸地帯に住むインジオに売っていた。
土地は州有地を勝手に使っていたらしい。その内、私有地を地主からタダで借りるようになった。そこは未開発の雑木林で、借り手が伐って開拓するから価値が上がった。だから貸す方はタダでもよかったのだ。
そんな具合であったが、7年後の1920年には、330家族の集団地に変貌していた──というから驚く。
そうなったのは──桂植民地の項で触れたが──米の市況が良かったからである。最初の入植から数年で生産量を大きく増やし、汽車で市場に出荷するようになった。
それを聞いて縁者が、サントスその他から続々とやってきた。地主は、これにも土地をタダで貸した。もっとも人数が増えると、賃し貸をとる様になったそうである。
アナ・ジアスの邦人は、その総てが長くここに留まったわけではない。線路が延び、新しい駅ができると、次々そちらへ移動して行った。そこには、無論、他所から直接入る者もいた。
かくしてラポーゾ・タバーレス、イタリリー、ペドロ・トレード(旧称アレクリン)、ペドロ・バーロス、ビグア、セドロそしてジュキアの各駅に邦人の集団地が生まれた。多い処は200~300家族を数えた。
つまり、ジュキア線に開発前線が構成された。桂から始まってリベイラ河を遡るように造られた植民地の開発前線はジュキアで、これと連結、一本の線となった。
なお前項で触れたセドロ区は、右のセドロ駅であった。後にジュキア駅と合併、ムニシピオとなる。
ジュキア線の邦人の主産物は、1923年以降、米価が下降線を辿ったため、バナナに変わった。リベイラ流域は、古くからバナナの大生産地帯であった。
1930年代前半、ヨーロッパ、アルゼンチン、ウルグアイへの輸出が盛んになり、好景気が到来した。戦時中、一休みとなったが、戦後、再び活気が出た。が、やがて低迷期に入った。生産が過剰になったためである。
そこで、邦人は前々から作っていた野菜にも力を注ぎ、養豚(鶏、蜂)、木炭、ピンガ‥‥を加えた。俗に言う営農の多角化である。
ところが、1960年代から、離農傾向が顕著となった。これは邦人家族の都市への転住が始まり、それが大勢になったことによる。
農業は採算が悪化していた。地力が衰え病虫害がはびこり、肥料や農薬が必要になり、経費が嵩むようになったからである。昔は無肥料、無農薬で何でもできた。
前項で記した海興のジュキアの植民地の住民が去ってしまったのも、全く同じ事情によるものであった。
ジュキア線(内陸部、リベイラ流域)の邦人は減少を続けた。確かな調査資料はないが、最多期は1、000家族内外は居たそれが、1980年代には、その2割以下、しかも町住まいが殆どで、農業者は極めて微少になっていた──と筆者は推定している。
現在では余り変わらないか、それ以下であろう。仮に増えている処があっても、それは仕事の関係で外部から転入した人々であろう。
集団地によって構成されていた開発前線は、今は残っていない。