ある時にはモモにいたるまで直に体験させた上で指導、知らない果物など田舎育ちの子供たちにとっては興味しんしんで、とても楽しく先生の授業は今も鮮明に覚えている。
厳正な羽織袴姿とやさしく分かりよいハル先生の教えに私は、子供ながらに強く心をひかれていたことを今も忘れがたく懐かしい思い出となっている。
翌年4月には2年生に進級したが、担任は若い松村梅という女の先生だった。きわだった授業の思い出はないが、カタカナからひらがなに移る授業で対比を四角形の紙に記して教わったことを覚えている。
後年の梅先生について忘れ難いことがある。梅先生は、同じ西原町出身の平良幸一氏と結婚されて平良梅先生になっていた。平良氏は、戦後の日本復帰運動を屋良朝苗先生らと共に推し進めてきた指導者で、沖縄県議会議長や第2代目沖縄県知事などを歴任した。
同氏は、1978年10月に完成したわが沖縄県人会館落成式に夫人同伴で列席するはずであったが、その直前病魔に襲われて願いを果せなかった。40数年振りにブラジルで恩師との対面を期待していたが、残念ながらかなえられなかった。
松村梅先生2年終了直前の1936年、時あたかも2・26事件が起こり、いよいよ軍部の勢力が激化し、「大東亜共栄圏」という言葉をよく耳にした。
そして翌37年(昭和12年)7月7日に日支事変が勃発した。学校教育も軍事教練が導入され、教育現場にも軍国主義の勢いがひたひたと押し寄せてきた。
私を育てた学校と先生方
大正5年 摩文仁国民学校 摩文仁尋常高等小学校と改める
昭和元年 煉瓦造、瓦ぶき9教室造る
昭和16年 摩文仁国民学校(皇国の道の修練)
昭和27年 米須小学校と改称
昭和52年 米須小学校校歌制定
小学校1年の国語読本
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」
「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」
1年はカタカナだけ、2年からひらがなを勉強、いよいよ軍部の激しい勢力は9月13日、戦争勃発から2カ月足らずで中国上海を陥落させ、年末には広東、武漢まで占領してしまった。
しかしながら広大な中国大陸の戦いは、容易に決戦には到らず長期化し、小学校を終了しているのに戦争はまだ続いていた。そういうこともあってか、皇民化・軍国主義教育が一層強化され、学校名も尋常小学校を国民学校に名称を変更し、勇猛な戦果をあげたと云う「三勇士」の軍人賛美が盛んに唱えられるようになった。
小学校6年生になれば、各々将来の進路を尋ねたり進路の指導があった。男の子は海軍志願兵だとか、少年航空隊だとか、女の子も看護婦志願など軍人志望が目立つようになった。それもそのはずだ。
学校に於ける朝礼は、最初に「宮城遥拝・最敬礼」で始まり、終いには「海行かば 水漬くかばね 山ゆかば 草むすかばね 大君の 辺にこそしなめ かえりみはせじ」と全校生徒が大合唱し、それによって戦陣の気勢をあげるのであった。
同時に村役場の大広場にある土台を利用して、出征兵士を送る多数の村人たちが武運長久を祈り、天皇陛下万歳を唱えて出征兵士を見送る光景が盛大となってきた。