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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(18)

 運というもの

古賀夫妻

古賀夫妻

 リベイラ流域のバナナは、昔から、河川の沿岸で栽培されてきた。上流から運ばれる肥料分で、土が豊饒なためである。
 しかも収穫後は岸まで運べば、後は船で輸送できた。しかしながら、しばしば何処かが大雨で氾濫した。
 すると、被害を受ける生産者が出、市場への出荷量は減り、市況は上昇した。被害を免れた生産者は儲けた。誰もが、それを承知の上だった。つまりは賭けであった。(現在は、岸近くでの栽培は禁じられている所が多い)
 氾濫は、既述の1983年の場合が物凄く、100年に一度の大洪水と報じられた。5月から6月にかけて豪雨が続き、沿岸は至る処湖と化し、バナナ樹は深く水に浸かった。
 橋や道も冠水、人も車も近づくことすらできなかった。バナナは市場では当然‥‥これは繰返し記すこともあるまい。
 この時、沿岸ではなく高地で栽培していたバナナ作りがいた。すでに本稿で二度登場のカジャチの福田のお婆ちゃんのファミリアである。
 そして、同じ土地の古賀光樹さんのファミリアである。共に水害を免れ、前項で登場のフランコさんに言わすと「(一人勝ちならぬ)二人勝ち」をした。
 福田のお婆ちゃんのマリード孝さんは、結婚当時は運転手をしていた。運転手は、その頃は恰好いい稼業だった。お婆ちゃんは3人目の子供が、お腹に居た時、孝さんに、それを切り上げて貰った。危険だったからであろう。
 以後、養鶏や茶の栽培をした。そして1970年、カジャチに土地を買って入った。ここもリベイラ河の支流の流域だが、入ったのは山の上だった。
 樹木が生繁っていて、人間の姿は勿論、犬の子一匹見かけなかった。が、バナナの苗を植えると、よく育った。実はテーラ・ロッシャに近い沃土だったのである。(2012、3年時点では、何処までもバナナ園が続いていた)
 古賀光樹さんは1932年、熊本県に生れ、幼児の頃、親に連れられて、この国にきた。1969年、サンパウロの近郊で野菜作りをしていた時、夫人に病死された。子供は5人、頭が8歳で末っ子は2歳!
 窮した古賀さんは、知人の紹介で、再婚した。相手のノブさんも夫を交通事故で亡くし、幼児を一人抱えて居た。
 古賀さんは、仕事の方も難航していた。銀行に対する負債が膨れ上がり、当人の表現を借りれば「バンコの方が音を上げた」ほど。
 結局、アコルド=示談=で決着をつけた。その後、福田夫妻の誘いで、カジャチの山の上に土地をプレスタソンで買って入った。
 ピメントンを植えたが、うまく行かず、3年目、負債清算のため、ただ一台の車も銀行へ引き渡した。1975年には霜で作物が全滅!
 使用人には辞めてもらい、子供たちは学校を休ませ働かせた。長男のオズワルドさんは、その2年前、12歳の頃からトラトールに乗って、父親を助けていた。
 古賀さんは、福田孝さんの勧めでバナナも植えていた。
 そして、この両ファミリアが1983年の‥‥ということになった。
つくづく運というものを考えさせられる話である。
 2012年7月、筆者は、古賀さんのバナナ園を訪れた。夫妻とオズワルドさんが、応対してくれた。
 ファミリア古賀は、息子さん6人の内4人が、家業のバナナ作りに従事している。場所はカジャチとパリケイラ・アスー(レジストロの南隣りのムニシピオ)で、栽培面積は1、200ヘクタール、1ヘクタール1、500本、計180万本植え、4人が45万本ずつ分担、就労者数は計320人という。
 リベイラでは最大級であろう。
 農場の中には、パルミット・ププーニャの瓶詰工場もあった。こちらは夫人がやっているという。
 古賀さんは、これまで、お金に余裕ができれば、土地を買っておいた。所有地は数千ヘクタール。その多くは、このカジャチに在るが──地元の人の話では──そこは最近、鉱物資源が豊かであることが判り、政府が、良い値で買い上げているという。これも運である。
 このファミリア古賀も、強盗の被害に遭った。農場にある住宅に押し入られた。
 なお、福田のお婆ちゃんと古賀光樹さんは、その後、病気で他界された。それについては、思うことがあるが、紙面の都合上、割愛せざるを得ない。