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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(9)

 自分にとっては小学高学年にもなると、学校の宿題も多く勉強時間が増えるので親父の三線研修時間とよく重なった。それも連日となると折角の音楽もいやな雑音になり、勉強のじゃまにしかならなかった。
 幼少の頃からこのような環境で育ってきたせいか、音楽(特に三線)は嫌厭感にさらされ、なかなか親しみを覚えることがなかった。
 郷土の文化として深い歴史的伝統をもつ民族音楽をどうしてこんなに忌避するようになったのか、自分にもよく分からないが幼少の頃の「環境」だけにその由来を求めようとする自分にも納得し難いし、頑固な親父の血を受け継いでいる自分自身の中の頑固な性格がそうさせているのかも知れない。
 1958年3月には、ブラジル渡航のため学校を退職し、その旅仕度をしている間、家で妻千枝子の手伝いの積りで長男坊(一也)を子守しながら三線でもなんとかできればと思い、朝から手にしてみたがいっこうに歌や音楽にならない。約1カ月位1人で続けたがやはり駄目だった。幼少年期に忌避したたたりかと思い、以来三線を手にすることはなくなり音痴をそのままひきずってきている。
 でも親爺の血縁がいささかでも生きているとすれば、何ほどかの音曲の手法でも学び、千枝子が常に奨める、「父のように三線音楽を学べ」を実践し手軽に唄三線を楽しめたらよいのにと時々思う。
 しかし、その実践はなかなか難しいようだ。「三つ子の魂百歳まで」の箴言が思い浮かぶ。その箴言のもつ意味の深さに改めて思いを巡らしているこの頃である。

 第2章  戦争の惨禍  

 1 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所へ

 大東亜戦争に突入した1941年頃、軍国主義少年たちにとっては勇猛果敢な軍隊志願が圧倒的に多く、子供たちに将来の希望を尋ねると大多数の子供たちが軍人志向であった。
 しかしそれは、単なる志望であってその基準や条件は厳しく誰も彼もというわけにはいかない。部落の先輩や知人から上級学校に進学したのは何人もいるが、志願兵に行ったのは1人としていなかった。
 高等科卒業の年になると、担任の先生はいろいろアドバイスをする。同級生で前列から2番目に並ぶ私にとって少年志願兵は、夢の夢でしかなく、150センチメートルにも足りない自分の身長ではとてもかなえられない話であった。
 高等科一年の担任は真栄平守正先生であった。
先生は、「日本は食糧不足になやみ軍への食糧供給も足りないので、腹をすかしては戦いに勝てない。食糧増産と補給をするため満州大陸で大農式食糧増産に若い力が必要である。この戦争に勝つためにはソ満国鏡の警備と農業生産に是非若い力が必要とされている。国の為満蒙開拓青少年義勇軍訓練所が茨城県にある。しかも二人の先輩が既に満州に渡っているのだ」と教えてくれた。
 でも翌年高等二年は久保田次郎先生に変った。学校では毎朝朝礼で校長先生の訓話があり、鬼畜米英撃滅と大本営発表の戦果を賞讃して武運長久を祈り、そして「海行かば、水漬くかばね」――を歌って各教室に入いるのであった。
 こうして少年たちの魂は、軍国を啓発・高揚する教育を教え込まれ、その信念で総て対峙する軍国少年が形成されていたので、当然の如くその道にはまっていくのであった。