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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(18)

 前日移動準備をしていた馬を利用して、夕暮れに全部隊は営門を出発した。一行河可子向け鉄道沿線にそって乗馬行軍歩行していたその時、後方から汽車が走ってきた。わが部隊およそ200名以上だったと思うが、その隊列に近づくとロシア軍の兵団から一斉に機銃掃射を受けた。脅し射撃だったのか。幸い死傷者は1人もなく無事だった。
 夜半、河可子海岸までたどりついたら部隊長からの命令により、「獣医訓練生はここで解散する」となった。幸いにも河可子には多久島養鶏場と云う佐賀県出身の家族がかなり大きな農場で養鶏と孵化場を経営していた。どうしてそこを捜し出したか覚えていないが、仲間数人と軍属2~3名がこの農場に避難することになり養鶏の手伝いをしながらお世話になった。
 しかし、どう云う理由か知らないが、10名近い避難者のほとんどはそこからは出てしまい私と他2名だけが残っていた。それも暫くしてロシア軍に没収されてしまい、一家全員大連の街に出ることになった。幸いにも主人の多久島さんは、支那語・ロシア語・そして英語をペラペラ話せる達人だった。ロシア軍部隊のミーリアン部隊長も英語を語れる人だったので、二人は英語で相談事は語り合っていたとのことであった。
 多久島さんは大連在日本人(遠山さん)と懇意にしていたが、彼の空家を提供されたので多久島さん一家(主人の他5名の女性)6人と、私と3名が住める大連市内の住宅に移った。日本敗戦による支那人とロシア兵からの怒り、奪略、暴行に遭遇した日本人が多い中、私たちは被害を受ける事は全然なかった。むしろ河可子在住の頃、つき合った中国人の王さんとか李さんだとか2~3の支那人からは無一文となった多久島さんを気の毒に思い、時々食料品や物資を提供する程だった。
 なぜか知らないが、その頃2回も私1人でリュックを背に一日がかりで王さんの家に行き、翌日もまた玉葱、黍粉や豆に米など背負ってきたことをよく覚えている。
 当時の日本人は、ロシア軍人と支那人からの反撃、暴動の被害が多く、特に日本人の若い女性は髪を剃り落として男装する者が多く見られた。にもかかわらず多久島家は反対に全く安全で、その点避難生活とはいいながらも市街地の市場近辺に露天屋台で卵焼きの店を出し市場労務者に売り、その日暮らしの生活を送っていた。多久島さんの生きて行く為の知恵だったのであろう。
 ある日、家財を没収したミーリアン部隊長からのお呼びがかかった。と云うことは養鶏場の孵化機を利用して養鶏を復活せよ、家族の食物は軍から提供する条件で働いてくれとのことだった。喰うや喰わずの避難生活だったので、多久島さんと私2人が河可子の部隊に行くことになり約束通りこの義務作業についた。
 しかし、その仕事は、駐屯軍にとって決してうまく行くはずがない。卵の質が悪いばかりでなく、電気事情も再三停電したり、孵化後の育雛用飼料がないこと、戦後の無常無償が禍して、どうすることもできず半年そこそこで放棄せざるを得なかった。