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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(20)

 ところで私は、故郷の家族は全滅して誰一人として頼れる人がいなければ帰っても仕方がない、とばかりに考えていた。3年前に勤労奉仕で1ヶ月馴染んだ北海道は土地も広く今後日本の農業にとって最も適した土地であろう。だからそこを訪ねてみよう、と北海道行きを心に決め、その手だてを考えながら佐世保収容所で待機していた。収容所では、毎日自由に食事も事欠かずに暮らすことが出来たので、1ヶ月以上滞在していた。
 そんなある日、沖縄から学校の児童と共に本土疎開していた山城幸吉先生一行と風呂場で偶然にも遭遇した。先生曰く「君の家族は皆元気とのことだから是非故郷に行って会い、その後自分の希望を考えなさい」と云うことだった。驚くばかりであった。沖縄戦で家族は全滅したものとばかり思いこんでいた私は、「家族皆元気だ」と言う先生の言葉にわが耳を疑った。一寸吹聴ではないかと思ったが先生は恩師であり、奥さんは私の母の親しい間柄だし決してへまは云うまい。私はその言葉を信じて故郷へ帰ることを改めて考え出した。その頃4月に入って日毎に温かくなっていた。

 5 生まれ島・米須へ―焼け野ケ原に立つ

 佐藤軍曹から聞かされた沖縄地上戦で生きとし生けるものすべてが玉砕したものと思っていたが、どうして生きのびたのか、その生命力・運命の尊さに熱いものが胸に込み上げ、一刻も早く家族に会いたい思いに駆られた。そして戦後の故郷を見てみたいと考えるようになった。
 そこで北海道行きを取り止めて故郷に目を向けるようになった。玉砕と云われながら奇跡的にも家族の皆が生き延びる事があるのか、半信半疑で揺れながらも、疎開者が帰るのであれば当然古里で暮らせるわけだ、と全く諦めていた帰郷への思いに駆り立てられた。「やっぱり家族の健在を確認しよう」と私は、生まれ古里に帰る手続きを始めた。
 引揚げ船は佐世保から直行沖縄へ。アメリカ占領軍によって構築された中城村久場崎の桟橋に上陸し、米兵達によってDDTの消毒剤を頭から振りかけられ収容所に入った。入所と同時に出身地別に区分され、翌々日朝米軍トラックに乗せられそれぞれ出身地へと走った。去った大戦で、最も激しい敗戦終焉地とあって鉄の暴風に焼き尽くされた岩はだむき出しの山岳を見るだけで、激戦の厳しさを知ることが出来た。
 更に摩文仁、喜屋武、真壁の家族全滅や犠牲者があまりにも多く、三つの村合わせてもようやく一村が出来ると云うことで、三村合併して三和村を結成したと云う。その話を聞かされながら米軍トラックで走り、名城の集落出身の老夫婦が下車し、後は私一人となる。