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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(23) – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(23)

 その時20歳の年齢に達していた私は、農業を1年生から学ぶことになった。学歴社会の日本ではこれ以外の選択肢がないことを大先輩から教えられての人生処方であった。
 在学中4~5歳も年上ということで同級生から兄貴分視され、畜産主任の先生からは家畜の飼育係りに任じられ、時折授業中に質問を投げかけられたり、生徒会の会長に推されたりする存在になった。校舎も軍の払い下げコンセットやカヤ葺教室など校舎建設もあって充分とは言えないが、6・3・4制度から6・3・3制に学制も変わり、1951年3月に第一期卒業生となった。その年琉球大学が開設され進学を奨められたが、母1人で弟や妹たち数人を養育しているので、これ以上母に負担をかけることは無理なことと諦めた。
 その頃、多くの小中学校も青空教室からカヤ葺教室に変った後で教員も不足の時代だった。それで地元の校長先生に乞われ素養もないまま代用教員となった。ところで実際に教壇に立つと、いろいろ不備・不安を感じ、教育技術が皆無のままでは教師失格だ、と辞めることを考えている矢先に、臨時教員の養成を目指した教員訓練所が設立され、そこに入ることにした。

 6 教職時代

 教職員としての知識や技術を学び大学の単位を揃えれば正式の教員免許が下付される様になっていたので、夏休みを利用して単位修得に務めていた。その傍ら村の青年会長として糸満地区青年活動にも参画するようになった。それに糸満地区体育協会の依頼を受け地区陸上競技大会を全面的に協力して催したり、更に駅伝競走を主催したりと青年団活動が年毎に活発になってきた。それに地元の若者たちによる4Hクラブが各地域に結成され、青年たちが農業や農家の活性化に目覚めつつあった。
 とにかく敗戦によって県内青年たちの意気消沈は青年たちの気概喪失につながり、将来に希望を失い悪の道に流れる可能性がある。そんな事もあって糸満地区青年会では、自らの芸能公演や各市町村提供音楽演奏会を催したりして、娯楽のとぼしい農村青年に自ら楽しめる行事にも気を配り、年中行事に民族芸能公演やマラソン・駅伝競走など青年運動の活性化を押し進めたのであった。
 こうして地域の青年運動に積極的に参画活動するにはやっぱり自身の健康が必須条件であることは当然だ。従って毎朝海岸の砂浜で30分以上走ったり、体操したりして健康増進に意欲を燃やしていた。これが影響したのか糸満地区陸上競技大会では400m競争、800m競争、1500m競争に5000m競争の4種目に常に優勝する成果をあげ、優秀選手の栄誉と面目を果した。但し当時は記録に挑戦するなどの気配はなく、他所に勝つことを優先するなごやかな大会でしかなかった。

 7 村興し・青年運動 1951年3月

 ふるさと米須には自分と同年代の者が10数名いたが戦争でそのほとんどが戦死してしまい、生き残ったのは数名しかいなかった。しかし村の陸上競技大会や旧6月25日の綱引き、旧8月15日の村芝居など青年会が主体となって活躍する行事にしか会う機会がない。こうした部落や村の年中行事は戦前からの習慣でもあったが、今もなお受けつがれている。
 1951年3月から三和中学校に代用教員として勤務するようになると、そのまま村の青年会長に推された。中学校は真壁で村の中央に位置しているので自然とそうなるのかも知らない。断ることもできずおされるまま務めざるを得ない。