リオ州の日本語学校に勤める高木タチアネさん(三世、30)は4歳で長野県上田市へ行った。公立学校に通い、27歳まで暮らした。「小学校に上がる前に日本語を覚えました」と話す。両親との日語会話やアニメのほか、友人から教えてもらって習得した。
中学校に入ると、同級生の日系子弟らは授業についていけず、次々に学校を辞めていった。もしくは、卒業はしても高校進学せずに働き始めた。「特に14歳ぐらいで来た子は日本語に慣れるのが難しく、すぐにいなくなった。日系人で高校まで進学した子は他に知らない」と首を振った。
ただですら日系子弟が日本の高校を卒業するのは相当難しいのが現実だ。まして10歳を越えてから訪日した場合、言葉を習得して授業に付いていく壁は高い。
両親は朝早くから仕事に向かい夜遅くに帰宅した。日本語で苦労していた母の様子を見ていた高木さんは「四世ビザを解禁するにしても、ただの工場労働なら行かない方が良い」との意見だ。
サンパウロ市の日本語学校で事務をするAさん(匿名希望)は日本で生まれ、10歳でブラジルに帰国した。栃木県那須塩原市のブラジル人幼稚園に通い、卒園後に公立小学校に通ったが、理由のわからないイジメに遭った。「もしかしたら私が、他の子と違う振る舞いをしていたのかも。帰国が決定した9歳からポ語の勉強を始めました」と振り返った。
10歳でサンパウロ州リベロン・プレット市に来たAさんだが、ポ語の問題に直面した。「歴史などの長文を読む必要がある教科で本当に苦労した。一年でやっと話せるようになったけど…」。逆に言えば、日本で何年も懸命に勉強しても高校を卒業するのすら難しい。だが、当地なら「一年で追いつける」のであれば効率的だ。
パウリスタITアドミニストレーション大学でプログラミングや経営学を学び、昨年卒業した。でも就職活動では英語能力の問題で、職を得られなかった。「日本語よりも英語が出来るほうが重宝される。ブラジルで学歴があるなら、デカセギで日本に行くことはお薦めできない」と意見した。当然だろう。
Aさんと同じ学校で働く高藤マリアナ・デ・ソウザさん(四世、24)は「デカセギで日本にいた父に呼ばれて、2歳半のときに母と愛知県豊橋市に行きました」と振り返った。当時、日本語はほぼ分からなかったが、公立保育園に通う中で覚えた。ブラジル人学校の小学部に通いポ語をおぼえたが、学費のために4年生で公立小学校に編入した。その後は中高と公立学校で学んだ。
編入当初、日本語が分からず、他のブラジル人生徒に教えてもらっていた。日本語の特別授業を週に3~4回受け、一年である程度使えるレベルに。だが日本人生徒から、「日本語で話せないなら国に帰れ!」、さらに日語ができない他の日系子弟に通訳していると、「授業中に無駄話するな」という悲しい野次が飛ぶことがあったそう。これが日本の現実のようだ。
挨拶程度しか日本語を使えない両親との会話は、日語交じりのポ語だった。両親より日語ができた高藤さんは、診察時の通訳や書類などの翻訳を任された。「中高入学用の書類も自分で準備したことが記憶に残っています」。
帰国後は久しぶりに触れるポ語に戸惑うことがあり、今でも難解な文章を読むのに時間が掛かる。日本では学業で手一杯だったので働く経験が欲しかったそう。「私は日本で生きたいので四世ビザの解禁には賛成。今でも日本で出来なかったことばかり思い出してしまう」と解禁を待ち望んでいる。(つづく、國分雪月記者)