ホーム | 文芸 | 連載小説 | わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇 | わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(25)

わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(25)

 沖縄の現実を凝視した場合、今日経済的、精神的な面においては、更生への一途を辿りつつあるとはいうものの青年をして、建設的な意欲をみたしうる施策が講じられていないことは、はなはだ残念であり、この運動こそ青年に希望を与え、明日の沖縄を建設していくための新しい青年運動として期待し、本土派遣とあわせて沖縄自体により建設隊を組織し、青年隊運動を展開しようと計画しているのでありますが、なにしろ青年会自体財政的に貧困をきわめ、尚またこの事業が画期的な計画であるだけに、先輩の方々ならびに一般大衆の御協力と御援助がなければ実現しえないと思うのであります。
 どうかわれわれの意のあるところを御了察下さいまして、青年をして明日の沖縄の希望たらしむべく、ひいては郷土の復興、社会の発展のためにみなさまの心からの御援助をお願いする次第であります。
 1954年10月8日、沖縄青年連合会、1955年4月28日、沖縄産業開発青年隊が創設されたが、その頃自分はハワイ農業研修生への準備あれこれとあって、三和中学校教職を休職していたので青年隊創設に関与することはできなかった。
 したがって「創立35周年記念誌・青年隊のあゆみ」から引用すると名護の農業指導研究所支所の古ぼけた二棟のコンセットを借り受けて25名の第1回青年隊入隊式を開催している。
 当時の行政主席比嘉秀平、立法院議長大浜国浩、海外協会長稲嶺一郎をはじめ関係各位、団体代表、父母多数が参列して盛大にその入隊式を祝っている。その青年隊創設は、青年運動の一環として取り組まれたものであり、①地域青年団の役員、②村おこしから国土開発への青年技術者養成、③訓練された青年産業技術者の海外移民等々。
 いわゆる「働きながら学ぶ」をモットーとした産業開発青年隊はこうしてようやく緒につくこととなった。
 昼は働き、夜2時間の学習が日課であった。講師には琉大の新城利彦教授、翁長俊郎教授、教職員会長屋良朝苗先生、沖縄タイムスの上地一史氏、琉球新報社長池宮城秀意氏などを中心に琉球政府・海外協会関係者諸氏が担当していた。
 そして、白金ダム、備瀬ダム、安部ダム、宜野座ダムや土地改良工事など建設現場で昼は働き、夜は学習をしながら自主的な共同生活の中で訓練に励んだ。
 1954年1月7日、琉球政府海外協会会長稲嶺一郎氏、琉球政府経済企画室長瀬長浩氏がブラジルへの移民使節として来伯、1月29日バルガス大統領を謁見し、沖縄移民導入を要請、基本的に了解した。仲村渠パウロサントス市議とイベッテ・バルガス下院議員の斡旋によって実現した。
 後に移民審議会より受け入れ可能の通知書が届くなど、琉球政府や海外協会関係機関の積極的働きかけによって、固く閉ざされていた海外移民の門戸が徐々に開かれつつあった。時を同じくして農村二・三男対策として組織された産業開発青年隊の海外雄飛が沖青連では計画されつつあった。
 政府の移民施策と相呼応する形で教育訓練を行ってきた産業開発青年隊にも念願の夢がかなえられるようになった。

 8 ハワイ農業研修

 敗戦日本、特に地上戦で灰儘に帰した沖縄に対し、米国はそれなりの支援復興にも気づかっているかのようであった。同時に世界のリーダー国と云うだけに国家諸々の支援救援の制度もあって、知らぬうちにその恩恵を受ける事があるものだと思った。