即ち「海外雄飛」、かつての満蒙開拓青少年義勇軍の満州開拓時代やハワイ県人移民の現実の姿を自分の身に重ね合わせて見ながら、未来への人生を模索するのであった。
しかし、千枝子にそんなことを語ったこともハワイからの手紙に認めたこともない。同調するだろうか? あるいは反対せんだろうか?「狭い沖縄」、「占領軍圧政の島」、「極東軍事基地の沖縄」、決して安定した永遠の平和な島とは考えられない。やっぱりよりよい生活の安住の地を求めて海外移住した方がよいのか?小さな頭の中は混乱するばかりだった。何れにしても、最早婚約済みだし結婚して後にじっくりと相談すべき大事なことと胸にしまって、1956年3月無事6ヶ月の研修を終えて帰国した。
1951年以来新城幸栄校長にひろわれ教職につき、そして叱咤激励、しかも生涯の伴呂を求める大事な機会に恵まれたのであった。それこそ新城校長先生に是非媒酌人をお願いすることにした。そして大安吉日1956年6月17日、那覇のキリスト教会で晴れの結婚式を挙げることが出来た。
3 ブラジルへの移住
1 第4次青年隊移民
私は、1953年以来三和村青年会々長を務めていたので、沖縄青年連合会(沖青連)の動静は直接受けとめていた。そして戦後初のボリビア移民に小学校同級生だった玉城君江さんが第一次移民に参加して出発したことを知った。
更に1957年の第一次ブラジル移民青年隊三和村出身3名を送り出すための推薦状も書いてやったりして、直接関係しているうちに、「今が自分のチャンス」と強く意識するようになった。
しかも、その前の年にハワイに6ヶ月、移民の皆さんに接し直接生活体験、その活力を見聞してきたので、海外雄飛は若い程よい事を認識していた。と同時に猫のひたい程しかない農地に弟3名(次男、3男、4男)を分家させるには、それこそ大事業でも起こさないことには成り立たないわが貧農一家の事情があった。
どうしても海外の広い大地へと憧憬、そして大農場経営の夢を以前から抱いていた事もあり、自分が先頭にその道を開いていかねばならない立場を充分意識し、その時期を見計らっていたのであった。
それに、去った大戦で唯一地上戦に巻き込まれ、いやが上にも戦争のにがい体験をしている。特に朝鮮戦争の勃発と共にアメリカ軍による軍用地拡充と土地接収が県民に大きな反感と恐怖を与え、再び嫌な戦争がくる可能性を思わせる状況にあり、将来平和で安定した生活の出来る新天地を模索している時期でもあった。
こうして私は、1951年から7年間務めていた三和中学校、親父のように慕ってきた新城校長に退職願いを提出し、ブラジル行きを決めた。新城幸栄校長は私にとって代用教員に採用されて以来、教職ばかりでなく家庭的にもよく相談にのってくれた親爺であり、結婚の媒酌人でもあった。結婚し一家を守り教職を生涯の職業とすべきだとよく諭されたが、自分には自分の生き方があることを主張して退職願いを受理してもらった。
1958年4月29日、第4次移民青年隊の一員として私は、37名の仲間と共に那覇港よりオランダ汽船ルイス号で生まれ故郷沖縄を後にすることになった。
去った沖縄戦で砲弾を投げ込まれた濠で9死に一生を得たものの父と兄弟2人を亡くした悲惨極まりない戦争体験を2度としたくない家族にとって、朝鮮戦争勃発以来の米軍基地拡張は、不安と苛立ちを与え、平和で安定した住みよい地を模索、結局ブラジルへの先発隊の積もりで送り出し、早期に呼寄せすることが第一条件での約束であった。長男の一也も生まれて1ヶ月の歳月だし、一人千枝子にあずけての旅立ちだから、それは当然の既
決であった。