当日は陽春の日和りで、那覇港埠頭は見送りに駆けつけた人々で混雑し、その中に三和中学校の生徒数十人と先生方が大きな幟をはためかせて見送る風景はひときわ目立っていた。その脇間に千枝子と一也、母の姿がちらついて見え隠れする。暫くの間と云うイメージが頭を支配しているので、なんの寂しさも感じない。
むしろはるばる学校から見送りにきてくれた先生方や生徒への感謝の念が胸に去来するのであった。
いよいよ定刻の銅鑼が鳴り響くと、五色のテープが風に揺れてなごりを惜しんでいる。船はゆるやかに岸壁を離れるのであった。出港して後先客たちは、船酔いして元気をなくしていたが1週間、110日と経つ内に船にも馴れて元気を取り戻した頃、船内自治会なるものを立ち上げて、長い船旅を楽しむことになった。乗客200数十名の日本人の他にロシア人も2家族いた。
日本人監督は、飯島三男外務省派遣の官吏だった。その自治会代表に山口俊章、総務に中島勇、警備に秋永徳三、厚生に田中充、保健に村上航一、教育に山城勇が担当することになった。退屈しのぎに「大洋新聞」を発行すると共に子供たちの勉強等も話し合い、「船内学校(オーシャンスクール)」と命名し開校することにした。
乗客が多いために児童生徒が59名もいるので子供達の勉強意欲を維持するだけでも船内学校は必要であった。指導者12名で月曜から金曜日まで毎日2時間程度とした。しかし船酔いのため指導者も子供たちも平常でなく、船がゆれるように身体も頭もゆれる。充分な勉強はできず何とか「オーシャンスクール」の名目を維持して40日間、それでも子供たちや父兄からは感謝の言葉が寄せられ有難い気持ちにさせられた。これも移民船の忘れ難い思い出としてまだ記憶に残っている。
なお約40数日間の船旅は、観光気分、特に香港以降シンガポール、そして印度洋での赤道祭りもあって楽しんだ。アフリカではイギリス領の黒人と白人の人種差別の厳しさなど話に聞いた以上に厳格な差別を目のあたりにした。奴隷禁止となって久しい20世紀中葉にまだこんな差別があるのか?しかし、その黒人達にカメラを向けると喜んで写真におさまり、当然の如く小銭を要求し何ら違和感もない民度の低さ、どうしても腑におちない理解に苦しむ当時のアフリカの現実を見せつけられる思いであった。
移民青年隊とは言いながら世界を半周し地球の反対側ブラジルに到る1ヵ月半の船旅は、各寄港地に上陸し買い物や風紀・風物に接し、観光気分で楽しんだ。
2 最初の困難―配耕地をめぐる混乱
6月10日いよいよ目的地のサントス港に接岸した。下船の列、移民国家ブラジルは「トラホーム患者入国禁止」で、その治療に腐心していたので一寸気にしていた。しかし以外にも早く上陸許可を受けてホットしタラップを降りた。私は、出発以前に手紙で親戚にあたるミラカツー在の山城蒲吉(西リ山城小)氏に引き受け依頼状を出してあったので、恐らくそこへ行くものだとばかり思っていた。だが、そこには既に第1次青年隊の山城貞男が配置されており、彼はこれを理由に断っていた。私はそのことを全く知らなかった。