そして縁故もない未知のトッパンの嘉数家(小禄)に配耕されていた。嘉数家は、在伯沖縄協会トッパン支部長の具志堅彦昇氏に依頼し出迎えていた。ところがミラカツーの山城蒲吉(親戚)は私を受入れないが、同ミラカツー支部の日本語教師として引き受けるということで、支部長以下役員数人が引き受け実現を計って出迎えに来ていた。
私は、前述のように親戚の山城蒲吉宅に引受け依頼状を出していたにも関わらずこれが無視され、一抹の不安と憤りを感じた。同氏は、父の従兄弟にあたる人だが、私にはその面識はない。しかし、地球の反対側にいる唯一の親戚だがその親近感の乏しさ、心の冷たさを感じざるを得なかった。いやむしろ期待した自分の依頼心がおちだったのかも?と愕然となった。
咄嗟に、「仕方がない、これがブラジルの県人社会かも知らない」と言葉にも出ぬ無念な思いを噛み殺していた。その成行きが決着した頃、全然知らない人が是非会いたい、と申し出たので片方に立ち寄ると、「喜納全永」だと名乗り「真壁の者」と自己紹介した。そして時間があるので、と食事に誘うのであった。「実は私もミラカツーに住んでいるのに先程の行為はでたらめだったので気になったよ…」と語り、「これはブラジル名物のフェイジョワーダだ、味見してごらん」と勧められ思わぬご馳走と励ましの言葉を受けた。上陸早々に直面したブラジルの悪印象をこの喜納さんが唯一明るくしてくれた。
ところが、既に配耕されたトッパン支部の嘉数家も、本人ではなく上原家に委譲する計画で具志堅彦昇支部長に依頼し、その支部長が出迎えにきていたのである。配耕企画責任者の在伯沖縄協会事務局長屋比久孟清氏は、この混乱した煩雑な事情を知り、もし引受人が嘉数ではなく上原となれば沖縄協会として責任を持つことは出来ない。
従って具志堅支部長と相談し、もし引受人変更が事実とあれば山城勇本人の「自由意志で引受け人変更」をしてもよい、と云う申し合わせをその場で確約決定した。そこで私は企画に従ってトッパンに行くことを認めた。そして具志堅支部長の引率で数人一緒にトッパンに向った。トッパンに着くと、またしても混乱が待っていた。私は嘉数ではなく上原家に委譲された。そこで私は「自由に意思決定」することを具志堅支部長に相談し、上原家を出ることにした。
ところが支部の移民部長とか云う比嘉賀昌氏が「自分勝手に出ることは許されない」と怒鳴る、そして違反行為だと問題化してしまった。この決定は後で聞かされた。(支部長の説明がなかったからかも知れない)。
この一件は、あまりにも杜撰な出来事と言わざるを得なかった。具志堅支部長が嘉数家と上原家に説得して理解を求めるべきことであったであろう。在伯沖縄協会による移民導入事業は大事な事業であることは言をまたない。しかし、一人の人間を自分はいらないから他所にやると云う奴隷でも使うようなやり方には全く納得できることではなかった。そればかりではない、労働時間を全く無視した長時間の激しい肉体労働を当然の如く強制する。旧移民の苦労を考えれば、その労働について理解できないわけではない。しかし、いきなり初期移民の轍をふめとか、過重労働を強いる無謀さには程度がある。自分のトランクを見てか知らないが「赤子にカミソリ」と云う言葉を何回か語っていた。