とにかく旧移民は働きに働いてようやく今日を築いてきた。従って君たち新移民も理屈抜きに働くことこそ成功の基だ、と常に過重労働を強要していた。自分にとって働く喜びは充分理解しているし、夜明けと共に朝露を浴びて日暮れまで懸命に働いておりながら、そんな奴隷にでも言い聞かせるような下士官根性にはあきあきしていた。
丁度その頃一足先に着伯しオゾワルクルース界隈の大城農園で働いている山城良雄と二世山城パウロの2人が、はるばる私の入植地を訪ねてきた。そのパウロの母と私の父は従兄妹にあたるとのことを聞かされてびっくりした。初耳ながら家譜をたどるとなるほどと思い再度かたい握手を交わし、近日中に会うことを約して別れた。
時あたかも7月のお盆、そこで、7月12日、父の従兄妹に当たるオゾワルドークルースの山城家に墓参に行くことを理由にして、1ヶ月目の7月13日に2日間の休暇を申し入れた。すると、雇用主上原は、「その日7月12日はしっかりと日中働いて夕方から行きなさい」と云いわたした。
耕地の冬、肌寒い7月の午後7時に出発して町まで30kmの農道を急ぎ足で歩いて朝ようやく町に辿り着いた。早朝お婆さんに言い訳を尽くし、例のオゾワルド・クルースへ汽車で行くことにした。着伯1ヶ月目であった。
この上原家で1ヶ月働いて前述の自分の意志決定による自由行動でその家を出ることを頭に描いていた。勿論、オゾワルド・クルースの山城家に移る事を条件に具志堅彦昇支部長家を訪ね了解を得た上での行動であった。同時に協会事務局長屋比久氏へ手紙を出し、その経緯を報告した。
当時は戦前移民と戦後移民との間でこうした問題が随所で起こっていた。単独移民として希望に燃えて新天地を求めた青年隊移民の多くの者がこの対立の渦に直面した。また対立は、一家庭の親子の間でもよく起こった問題であった。太平洋戦争における日本の敗戦から10年余の空白期が生んだ「勝ち・負け」も絡んだ珍現象で親子・兄弟の間柄でもこんな苦い・悲劇的なトラブルがあり、よく耳にしたことだった。
3 新天地 ― サント・アンドレー市への移転と家族の呼び寄せ
将来大農場か牧場経営を夢みてきた移民にとって単独ではとても夢の実現はおぼつかない、一農年を体験した今、それに出発以前から家族の呼び寄せは早い程よいと申し合わせてあったこともあり、好機とばかりに県人会事務所へ呼び寄せ事情を聞くことにした。
幸いに6ヶ月前に妹キサ子の夫大田実一家がサント・アンドレー市で叔母に当る照屋商店で働いているので、そこを宿にして屋比久事務局長を訪ねることにしたのである。同事務局長によれば、青年隊移民による家族呼び寄せ第1号だと微笑んで出迎えてくれた。早速手続きをすることにした。然も初めて知った事に自分の母の従姉妹が4名もこの町にいることを妹サキ子から聞き及んだ。4人の従姉妹は戦前移民で現在商業に励みみな元気で頑張っていると云う。そして彼女等の意見では早めに移住しこの町にくるようにと云うことらしい。