しかし自分自身商売は全然経験がないばかりでなく農業移民でブラジルにきて町住いとは道理が合わないとばかり思っていた。それでも呼び寄せ手続きが出来たので2週間程、義弟実のフェイラ現場を見たりしていると、県人移民のかなりの人々がフェイラに従事していることに驚いた。
しかしこの地球の反対側でウチナーぐちをはりあげてお客と対応し、当然の如く談笑したり戯れているあたり珍しいやら可笑しいやら、同じウチナーンチュとして何か違和感を感ずるのであった。しかし市場の真っただ中でのウチナーグチでのおおらかな態度には拍手さえ送りたい程だった。
私は、一旦オズワルドクルースに戻り、綿の収穫や出荷など1農年を果し、やましろ農場の親族たちに別れを告げ、1959年5月初旬にサント・アンドレー市に移動した。そして家族の受け入れ準備をすべく計画をたてた。取りあえず都市近郊で蔬菜農園が無難ということで、その適地探しをはじめることにした。
そのためサント・アンドレー市郊外及びマワー、サンベンナルド・ド・カンポ、リベロン・ピーレス、スザーノまでバスを乗りつぎ調査見聞にあたった。しかしながら適地らしい適地はみつからなかった。勿論言葉の壁で日系人が対象だからでもあろう。2ヶ月近く足を棒にして時折り義弟実と一緒に歩き廻ったが見つからないのに適地は目の前にあった。
実が住んでいる家から直線で200メートル程にある日本人養鶏農家であった。余暇利用で散歩がてらに立寄ったところにかなりの空地が放置されている土地を見出したのである。早速家主に会い尋ねてみたら、同じ日本人であり詳細を語ることなく、あいさつし再度お伺いを約束した。
蔬菜園経営とフェイラ(青空市)への進出
サント・アンドレー市のこの一帯はファゼンダジュツタ地区と云い、日系農家の集団地で養鶏に蔬菜農家が集団をなしていて、日本語学校や日本人会も盛んということを妹から聞いた。義弟実は夜の10時頃からバスを利用でサンパウロ中央市場に出掛け、野菜を仕入れて翌日早朝から午後1時頃までにフェイラで売り捌く、その毎日の繰り返しの夜行性日課である。
私は、例の養鶏農家に分譲可否を確認するため1人で尋ねることにした。主は小柳増雄という長崎県出身であり、戦前移民で入植以来転々と移動を繰り返しこの地に辿り着いて16年になると云う。
それで賃貸料も安いのでこれ以上移動することはないとのこと。そこで空地の分譲を是非と打ち出すと、約1アルケール(24,000㎡)だがそれでよければ使ってよいとのことで即決、少々狭いけれども当分なんとかなる思いで分譲は成立した。トッパン入植当初引受人だった嘉数・上原両家のウチナンチューたちとは全く対照的な対応に心を打たれるばかりだった。
その温情深い言葉をしみじみとかみしめながら深謝し家路についたのであった。そしてその出入り口の向いには本田、その隣に定常と云う日本人家族が住んでいることも判明し、その通りはアベニーダネバーダでサンパウロ市とサント・アンドレー市の境界に近いことも分かった。
最早7月も目の前に迫っていたので早速翌日の朝、小柳さんに境界に杭打ちをお願いし、草刈り地均し、住宅作りの準備をすることにした。