それで義弟実のフエイラに合流し共同でシヤカラ(農園)を経営することにしたのであった。それが大変好調であり約4ヵ年間も継続した。家族総出で植えつけた蔬菜の稔りを夜も明けぬ前から摘み取り、荷馬車に積んでフェイラで売りさばく労働は、働けば働くほど充実した結果をもたらした。
このような中で、姉のトヨ夫山城茂雄一家7名、及び妻千枝子の両親山城良行一家3名、そして弟義雄の嫁幸子の11名が1962年2月14日チサダネ号で来伯した。こうして新しく2家族が仲間に加わり、いよいよ大家族集団が形成された。そこで農地を6アルケールに拡張し、中古のトラックを2台に増やし、本格的な蔬菜農園に拡大したのであった。
農園経営は順調に伸び、トマト栽培にも力を入れはじめた。だが1963年10月にトマト1万本が収穫期を迎えていた時期に、農園が降霜にあい霜害に遭遇してしまった。それにジャガイモや葉菜類など一夜にして真黒に焼けてしまった。着伯2ヵ年目を迎えたばかりの義兄山城茂雄は、懸命な働きも一夜で水泡にきしてしまった惨状を愁い、仕事も手につかない程のショックを受けた。
コーヒー耕地での霜害は話でよく聞いたが、トマトとサツマイモの蔬菜園の霜害がわが身の上に直接叩きつけてきたわけである。
幸い、毎日のフエイラ出荷のための葉野菜・根菜類など多くの種類を植栽していたので、大打撃の中に在りながらも、なんとか生きのびることはできた。
しかし、この霜害が一つのきっかけとなり、予想もしなかった3家族それぞれが分家することになった。
1963年当時3家族の家族構成は下記の通りだった。
① 山城勇(35歳) 千枝子(31歳)
一也( 6歳) 達也(1歳) 弟 義雄
(25歳) 妻幸子(25歳) 幸雄(23歳)
光雄(19歳) 母(56歳) 美代(30歳)
ちえみ(9歳)
② 義兄 山城茂(40歳) トヨ(38歳)
政美(13歳) 謙一(11歳) 明美(10歳)
佳弘(8歳) 和則(6歳)
③ 義弟 大田実(26歳) サキ子(26歳)
ジュン(6歳)
3家族共そのままフエイラ業を続けていたが、弟の3人は大型トラック中古車(10トン車)を買い自から運転する運送業に転業した。
バイア州やペルナンブーコ州は勿論、1ヶ月がかりのセアラ州のホルタアレーザまでも遠征するなど得意気に若さと好奇心にかられて走りだしたのであった。しかし永続きすることなく2ヵ年で放棄せざるをえなかった。失敗の原因は、中古車のため遠路途中車の故障や1台での数日間継続運転による車への負担が過重となり、維持費過多であった。
トラック1台での個人経営は成立しないことで、自ら失敗を認めざるを得なかった。
4 在伯沖縄協会との関わりの発端―
サント・アンドレー支部会館建設
サント・アンドレー市郊外で自ら生産した蔬菜をフエイラに出しているとその野菜類が新鮮である。そのため顧客が多くなりバンカは繁昌する。その中に大城助一さんとの接触が重なってきた。大城さんはサント・アンドレーに於ける沖縄県人の草分けであり顔役であった。