言葉は全然話せないままウチナーグチで手まね足振りしながらなんとか務めをはたした。
ところで、母にとっては偶然ながら6人の従姉妹がブラジルにいた。サンパウロの仲本の祖父さん、カミロポリスの玉那覇のばあさん方、ウッチンガの大田、パーリキ・ダ・ナソエスの照屋と大田のばあさん方で、皆戦前移民であった。
そして、いつも週末、月末になると家庭巡回の集いを楽しんでいた。そこでわが家も集る一つの拠点となることが出来たわけだ。母の従姉妹たちは、戦後の故郷沖縄のことは全く知らない。特に沖縄戦では出身地の米須が戦争終焉の地であったし、親戚や知友の安否も大きな関心事であった。
その頃の彼女たちは、還暦を迎えていたか、その前後の年齢で、まだまだ健康そのものであったが郷土訪問はしたことがなかった。そのため家によく集っては戦中・戦後の古里情報など四方山ばなしに花を咲かせて楽しんでいたものだ。
こうして、自宅が建ったことにより家族の仕事面でもいろいろ変わってきた。変わってきたと云ってもフェイラの仕事はそのまま続けていた。その中に弟の義雄に子供が4番目誕生し、幸雄は結婚適齢期に達していた。
家族の仕事分担
義雄は馬耕用馬を使い後にトラクターで、耕転作業を主にしてフェイラ作業にはあまり行かず光男は専らフェイラ作業に従事していた。幸雄はその中間でトラック運搬を得意にしていた。要するに義雄と幸雄は生まれつき商売を好まない性格だった。
従って末っ子の光男は必然的にフェイラ業に専従せざるを得ず、女性軍と連日のフェイラの仕事に従事していた。
こうして、家族はそれぞれ仕事を分担し、一致協力した結果裸一貫で移り住んで7年目に住宅(サロンを含む400㎡余)の建設を成し遂げた。時を同じくして、私はサント・アンドレー支部会館建設の書記会計として多忙な毎日だったが、どちらも支障なく完成にこぎつけることができたのは、家族や会員の絶大な協力の賜物だったと思っている。
幸雄の人まね運送業
1963年10月の霜害が原因で3家族が分家したので借地農園を処分し、それぞれフェイラ業に専念した。ところが3男の幸雄が見よう見真似で運送業を望んで、トラックがほしいと云うことで中古車を買った。「FNM10トン車」だった。
未経験のため日系二世の運転手を雇い2人で仕事を始めた。サンパウロ州内は勿論、東北セアラーのフォルタレーザまで1ヶ月がかりの仕事もあって、仕事には事欠かなかった。ところが、中古車ゆえに車の故障が重なり維持費が増えてきた。
年越しの大晦日の夜、サンパウロ市から200kmも離れた地点で積荷過多のためにペネウ破損し動けなくなった。私は呼びだされ夜を徹してペネウを買い届けたこともあり、正に「骨折れ損のくたびれ儲け」を実感、幸雄は事業の失敗をさとったのか、車を処分し、ひそかにやめてしまった。
友人の市内運送業に惚れて、約2か年間も続けたが、無謀な事業の失敗を本人自身が身を以って悟り、兄弟たちと同様にフェイラ業に転じたのであった。