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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(42)

 在伯沖縄青年隊の組織づくりの始動

 とにかく第一次隊の1957年から10年目の1967年にサンパウロ市在住の何人かが集って10周年を祝ったらしいが、それは決して正式な組織活動ではなかった。それにしても青年隊のよしみは深く頼母子講をそれぞれの地域で発足させ、各自の起業や結婚資金に丹精をこめて蓄えていた。
 当時、私は自宅の建築やサント・アンドレー支部会館建設に奔走していたので青年隊活動には疎遠だった。勿論全然連絡もなく知るはずもなかった。たとえ知ったとしても当時の私にはそれに関わる余裕はほとんどなかった。
 ところで、1969年頃誰が発案したか定かではないが、青年隊の留守家族や関係機関に青年隊の現状報告のために代表を派遣したらどうか、と云う話が出たらしい。
 第一次隊の具志堅古三郎や大城三男の2名がその話を持ちかけ、こんな事業なら是非とも先輩でなければならない、両君は私の家を訪れた。
 前述のように支部会館建設の仕事や家庭事情などで手も足もだせないのでとても無理だと断った。事実借金を残して建てた家の後始末や、支部会館の残務整理があって当分動けない立場にあった。
 しかし、彼らは中々納得せず何回となく要請するばかりだった。更にサント・アンドレー支部では会館建設祝賀会と総会があり、しかも総会では次年度の役員改選をめぐって支部長の平田志安さんや大城助一前支部長等によって山城勇を次期支部長に推挙して、総会で決定することを私に告げてきており、これを断り誰か他所に廻すよう頼んでいる矢先であった。
 ところが、大城三男と具志堅古三郎が再三訪ねてくるし、しかも平田支部長にも説得要請していたらしいのである。当時、青年隊と云っても戦後の新移民扱いで先輩移民からは極度に軽視されていた時代、ところが母県への移民事情報告となれば、それは或る程度重要任務にあたいするものと平田さんは考えたのであろう。
 二人の要請までは断り続けていた私であったが、平田さんは家族の者たちまで説得をしていたらしく避けられない立場となった。1970年6月青年隊の総会があり、大城三男と具志堅古三郎の誘いで乗り気もしないまま参加した。
 沖縄角力で人気のある宮平守雄が代表格となって総会を取り仕切っていた。そのうちに、母県への代表派遣が課題にあがり30数人の参加者は賛同していたが、300余名の隊員にとっては白紙同然。移民受入れ窓口の県人会や隊員のしっかりとした意見と必要資金調達法も打診する必要があり、各地域の代表者に会って意見を聞くべきことを訴えた。
 そして代表者は、しっかりと青年隊の現状を把握せねばならない、と考えたので、その旨を屋比久孟清県人会長に報告し、意見と助言をあおぐことにした。会長もこれに大賛成し隊員の実情をどう調査するかが君達の課題だと云うことであった。全く同感であった。
 こうして県人会長の賛同も得たので最も必要視される資金調達の問題、これは自から生み出す以外どこからも支援の道はない、と考える程にその必要性が気がかりとなり、隊員による代表派遣の意義と出資(寄付)の可能性を打診するため隊員集団地を訪問し意見を聞くことになった。
 カーザ・ベールデ、カンポ・リンポ、ビラ・カロン、サン・マテウス、カンピーナス、ビラ・ビリーナ、サンタ・クラーラ、サント・アマーロ、ジュキア、サントス、マワー、サント・アンドレー、サン・カエターノ、とサンパウロ市内の各バイロや近郊を巡り、資金作りの予備調査を行うことが第一歩とばかり、約3ヶ月かけて3~4名一組の数組で駆け回わった。