週末に開催された「南米日本語教育シンポジウム2017」を取材して、いろいろ考えさせられた。特に「南米日系社会における複言語話者の日本語使用特性の研究」(H28―32科研費、代表=松田真希子・金沢大学)という大きなプロジェクトが始まっていると聞き、調査される側として実にありがたいと感じた。
「複言語話者」(バイリンガル)という存在は、移民社会を理解するための最も根本的な要素だと思う。移民家庭では家庭内に国境線がひかれる。この意味が、みじかでない人には分かりにくい。親は祖国の言語社会を中心として生き、移住先国の国籍を持った子は現地の言語社会が中心になるからだ。
家庭のど真ん中に言語・国籍・文化の巨大な裂け目が現れる。理屈ではない。言葉以前の感性、笑いのツボや「常識」のレベルで明らかに異なる。その橋渡しをするのが「複言語話者」で、一世が堪能な場合は少なく、おもに二世がそれを担う。
二世は二つの文化を理解する宿命を抱え、その分、生まれつき強いストレスを抱えた世代になる。反面、語学の天才が生まれやすい稀有な世代だ。
「家庭は文化の箱舟」とは常々言われる。人類の移動と共に直面してきた、古くてダイナミックな現象が「移住」だ。
弊紙前編集長の吉田尚則からは「移民は壮大な民族学的実験だ」と常々聞かされてきた。移民史は、プレートに培地を作って細菌を移植して観察する生物学の観察手法に似ている。
日本社会の一部を、ヨーロッパ文明を基調とした「ブラジル」培地に植付けて100年がかりで培養する中で、「日本人」という種がどう振る舞うかを観察する―という行為が移民史だと思う。
「日本人」という菌は、培地にもともとあった圧倒的に優位な菌「ブラジル人」と格闘をくりかえして、自分のDNA(文化、言語)をできるだけ保存しようとしてきた。その過程を一つ一つ解き明かしていくのが移民史だ。
ところが、いまだにどうやって「移住」を上手に行うかというマニュアルはない。カギとなるのは子孫の教育だが、いまも手探りでやっている。
「一世はどう異文化に適応するか」「複言語話者をどう育てるか」というのは、本当に難しいテーマだ。
ブラジルという強力な同化志向を持つ社会、いわば「猛獣」と、移民はいままで素っ裸、丸腰状態で、ただやみくもに四つに組んで格闘してきた。何の戦略も理論もなく、ただ試行錯誤を重ねてきた。
今回の研究が、そんな移民の体験を学術的に体系化、理論化してくれ、後世のために役立つ形にしてくれるのであれば、今までの苦労は報われる。今までの数限りない涙なしに語れない失敗談が、将来の糧となる。今後、移住する人たちは理論武装した状態で、移住という難しい課題に取り組むことが出来る。
今回の発表を聞いていて思ったが、この研究グループであれば、日本国内にいるデカセギ日系人と、南米のコロニアを一体のものとして見てくれるはずだ。
今までの研究者の多くからは「日本側は日本側、南米は南米」という見方を感じた。我々からしてみれば、在日日系社会と南米のそれは一体だ。「越境しているかどうか」だけの差で、まったく同じ人間といえる。
同様に、日本の地方自治体は公立小中学校の多くは外国人児童・生徒の問題を「地方の教育課題」として考えている気がする。
だが、それはブラジルでは「外交問題」や「民族問題」だ。在日ブラジル児童の教育の問題は上院でも公聴会が行われた。こちらでも社会問題化している。日本ローカルなものではなく、すでにグローバルな問題として認識されている。両方の視点が必要な時代だ。
「移民家庭が幸せな人生を送るにはどうしたらいいか」という問題は、本質的にグローバルな問いかけだ。
欧州しかり米国しかり、「人の移動」をどう制限し、どうサボートするか。どんな社会であれば、受け入れ先も移民家庭もストレスが少なく、将来的に国際的に有為な人材が育ちやすいか。
今回の研究は、そのような現代的な問いに、しっかりとした理論的な支柱を与えてくるものと大いに期待したい。(深)