しかも知人の娘に歯科医がいて年頃だからと、結婚ばなしを語り合ってもいた。事実、何人か配偶者相手と相談もあったが、本人はそれを耳にせず聞き流していた。
親同士もよく知っているし自分としてもよい相手だと思っていたが、本人はその話に乗ってくれないのでどうにもならない、そういう思いの中での姉妹との語り合いであった。
その当時、県人会長一期目の年度末で日本への出稼ぎ最盛期、宜保マウロが日本へ引揚げ家族でバンドを構成して、日本語歌唱だけでなくブラジルの歌まで歌う人気バンドであった。
そのバンドが2ヶ月もブラジルに滞在して各地に巡演して、私はそれに付き添いを頼まれていた。
家のパステス稼業は、家族にまかせきりとなり、ゆっくり家族と語る時間も取れない程多忙で家業はすべて家族まかせだった。1988年1月31日、遠い縁者にあたる山城フミさんが73歳の誕生祝いで招待状が届けられていた。
同じ日に辰年会(49歳)の青年隊員の渡嘉敷唯康から新年会の招待状があった。
さらに義弟芳政の結納式があり、これに是非参加をと云うことであった。総ての時間帯が同じだけに戸惑う。
しかも、サンパウロとサント・アンドレーを行き来して義理を尽くして参加せざるを得ないので、ゆっくりできるはずもない。
辰年会には1桁下の干支だから県人会長という誼で招かれたであろうから、しっかりと対応せねばならず形式的な参加では許されない。その事情をよく勘案せねばならない。
しかも参加するにはお祝儀は当然で、折々に招待される度毎に交際費が重なるのである。
多額ではなくとも回数が重なるとその負担は決して馬鹿にならないもので、口には出せないが先輩から「金銭を溜めておかないと会長になれないぞ」、と言われた言葉が脳裏にひらめく。
それもそのはず車は一日中駆け廻わり、交際費の総てが自己負担、行事用寄付金は人並み以上に範を示すといった出費は決して少なくはない。
無報酬でこれをうまく切抜ける術はないので年末年始の行事は頭痛の種である、とその日その日の日記に書き綴られている。
今、振り返ると、会長就任の意気込みと、表には語れない辛くつれない心の内の一端が綴らている。
フェイラの家業を家族にまかせっぱなしで、しかも学齢期の子供達にとって負担過重を強いるのは心苦しくてならない。
なんでそんな無茶な道にはまったのか、一人ごとのように頭の中で反芻することがしばしばであった。