県人移民80周年記念親善訪問団の顛末
1988年4月23~24日
南米・北米チャリテイー公演 34名
団長 宜野座嗣剛一行
県人移民80周年記念
「親善訪問団」の来伯
この芸能団は、県人会が招聘したのではなく、団長のあいさつ(祝辞)に「日本移民80周年祭典委員長尾身倍一の招聘」と書いてある。
ところが、尾身氏は県人会長である私に一言の連絡もないし、招聘者が現場に顔もみせないはずもなく全然信じられない事態であった。
しかもその日程や公演の打ち合わせもなくブラジルに乗り込んできて、ホテルを自分勝手に選定し支払いを県人会長の私に命ずる、という全くの常識はずれ、勝手氣ままな無作法を演じて見せたのである。
団長もさることながら副団長の山里勇吉は、移民70周年祭に参列したらしくブラジル県人会の存在を一部知っている様子で、彼がその団員を牛耳っているようであった。
後で耳にしたが、与那嶺某なる者が沖縄で彼等の公演依頼をしたが本人自身で取りしきることはできなく、その負担を県人会に背負わせたとの話しらしい。
しかしそんな常識はずれの芸能団は当然断ってしかるべきであったが、既にペルー公演をして後にブラジル入りをしているので今更断ることも出来ず、県人会として受入れることになった。
然し千歳一遇、団長の宜野座嗣剛君は三和中学時代の教え子であり彼自身が舞台の挨拶でその事実を語り判明した次第であった。
30年振りのブラジルでの再会ということもあっては反対もできず、本番翌日のひと時を利用して移民の玄関口サントス港を案内した車中での語り会う機会を持ったのがいささかの慰めであった。
親善訪問団プログラムの提載
私は、1975年10月頃にパスティスフエイラを始め、1988年3月まで約13年間にわたってその仕事を続けていることになる。
最近は機械化が進んでかなり作業工程が楽になったが、30~40年前までは総て手作り作業で時間と労働が大変だった。
朝はすくなくとも4時に起床し、パステス作りを仕掛け7時にはフエイラに出荷せねばならない。
土・日曜日はフエイラ業者にとってかけ入れ時である。ところが土・日曜日に限って県人会の行事が集中的に設定されるのが私にとって苦心難題の種であった。
一般の人々は土・日曜日こそ休日を楽しむが、その時こそがフェイラ業者の稼ぎ時で、全く反対現象であった。