子供たちの学校休日をフエイラ稼業に就労させて、学業をおろそかにする何とも苦い思いであった。
自分が県人会活動に傾注していると結果的に家族を犠牲にせざるを得なくなる。
これは誰もが知っている当然のことだ。だがそれを知っていて、しかも無報酬で、なんでそんなことをするのか。
自家用車を走らせ昼夜を問わず働き、県人会活動やその資金造成に頭を痛め、県人会活性化に手をやき、それでも多くの人々から苦情を言われ、叩かれるそれがおちで、これが県人会長の立場なのか。
では、それでも何故その職責につくのか。
馬鹿でなければ果たせない職責といいながら屋比久孟清氏は15期15年間県人会長を務めているし、花城清安氏は10期10年、文化センターでは9期18年も理事長に励んでいる。
それには人それぞれの事情もあろうが、いささか名誉心も働き、使命感や責任感旺盛で率先して働く姿勢が周囲から推挙の条件となり、その職責につくのではなかろうか。
沖縄県人は一般的に人前に出ることをさける習性があり「ナイシガル ナイル」といったひかえめの人々が大多数で、他県人会との違いかも知れない。
組織活動では必然的にそのリーダーシップが必要である。リーダーなくして組織活動は成り立つはずはない。推されたら止むを得ない。
人々のために働かざるを得ない。これが普通一般の考え方だから仕方がない。
そして引き受けたらしっかりと徹底してやらねば気がすまない。これが常識であり人間性ではなかろうか?
沖縄県系人の消極的姿勢(態度)は改めるべきではなかろうか。私は日頃からその思いでいたので推されたらなんでも心ゆくまでその責任を果たさねば気がすまない性格である。
こうして私は、1964年にサント・アンドレー支部会館建設をめぐって平田志安支部長、仲宗根ペードロ副支部長らの下で、書記会計として資金募集・土地購入、そして建築工事と約4ヵ年がかりで建設する活動に関わりはじめたのである。
これが私の沖縄県人会活動の始まりである。1966年12月の年末に完成し、イナウグラソンを催した。
活動拠点の会館は出来たが内部施設や備品を揃えたり、具体的整備に2~3年の歳月を要した。
その間、玉城栄八郎が支部長として2期務め、1970年の定期総会において私は支部長に選任されたが、当時は、既に書いたように青年隊代表派遣の任務があり、支部長就任を断る以外なかった。
そのため1ヵ月後に支部臨時総会を開催して金城正雄氏を選任することになった。それ以降私は、青年隊運動に転じ青年隊着伯15周年祭や県人会本部の祖国復帰祝賀会などの役職に協力した。