「お誕生日なんか、今まで祝った覚えがないわ。こんな準備しているなんて全然知らなかった」。59年間も救済会を支えてきた「生き字引」吉安園子さん(89、二世)は、28日晩にサンパウロ市内ホテルで行われたスルプレーザ(サプライズ)誕生日会で130人から突然祝われ、とまどいながらそう語った。
救済会が1958年(移民50周年)に老人ホーム「憩の園」を設立し、その年から園子さんは働き始めた。だから会場には施設の入居者、職員、ボランティア、友人、家族らが、園子さんの到着を待ち構え、何も知らない本人が扉を開けた瞬間に、パラベンスの歌を大合唱した。驚いた園子さんがドギマギして恥ずかしがる姿に、会場では喜びの表情が広がった。
彼女は1928年8月22日に第2アリアンサで生まれ、パラナ州都クリチーバ連邦大学へ進学した。今でこそ溢れるほど日系学生がいるが、1950年代のクリチーバは、日系でしかも女性はごく珍しい。その中、クリチーバ学生連盟の理事までやった。
「本当は卒業したらクリチーバで働くつもりで就職口も見つけてあったんだけど、たまたまサンパウロに出てきたらムリヤリ救済会で働くことになっちゃったのよ」と笑う。
59年前、当時のドナ・マルガリーダ渡辺会長らが「日系社会はこれから高齢化の時代になる。老人ホームが必要」と考え、「憩の園」を創立した。日系社会の全盛期は1978年(移民70周年)といわれており、その20年前に高齢化に警鐘を鳴らし、対策を講じ始めた。先見の明のすごさに頭が下がる。
返礼の挨拶にマイクを握った園子さんは、「私よりも重要な役割をはたしている人はたくさんいます。例えば田名網富子は二世初の社会福祉士としてアメリカでも勉強し、その成果を憩の園で活かしてくれた。その他、たくさんの裏方に支えられています。決して表に出ない、その人たちこそが大切な役割をして果たしています」と周りを賞賛した。
そんな園子さんだから、このような会が催されるのだろう。彼女自身が常に裏方に徹し、ドナ・マルガリーダの黒子のように事務方を取り仕切って支えてきた。86歳で救済会の会長になったのは経営が大変な状態になったからだ。当日も彼女は「救済会はいま大変な時にあります。多くの人の支えがある限り、破産させるわけにはいきません」と繰り返した。
司会をした本田泉(イズム)専務理事は、「僕たちは経営方針を巡って何回もブリガ(口論)してきたけど、常にお互いに敬意を払ってきた。だからこそ今日は特別な日」と明かした。今年、園子さんが春の叙勲で「旭日単光賞」を受勲したことを記念し、この祝賀お誕生日会を企画したという。
佐藤直会長は「今日の準備は、すべてイズムがやった。しかも、こっそりと。園子さんはその生涯の全てを救済会に捧げてきた。我々の模範であり、心から感謝を捧げたい」と挨拶した。
3月の定期総会で本田専務理事は、「救済会の基本方針は創立時から『困った人を助けること』。これはドナ・マルガリーダ渡辺が創立した時からの考えであり、今も変わらない。もし同い年で同じぐらいの健康状態の入園希望者が2人いたら、経済状態が悪い人を優先して入園させてきた。でもその結果、財政状態は年々悪化するばかり。今のところはそれを続けているが…」と経営窮状の構図を説明していた。
毎月約45万レアルの運営経費がかかるが、通常収入である家族からの支払いと会費では20万レアルしか集まらない。足りない分は寄付とイベント収入で補っている。
「貧者救済」を看板に掲げていても、本当にそれを実行している福祉団体が今どきどれだけあるのか―。
創立以来1200人以上がここで安らかな余生を送り、御世にも旅立った。一世はブラジルに来て、右も左も分からない中で、ひたすら身を粉にして働いた。
それで裕福になれた成功者は確かにいたが、ごく一握り。大半の人たちはそこそこの生活を実現するのが精一杯だったし、豊かになれなかった人や身寄りのない人も相当数いた。
もしも「憩の園」がなければ、後者はどう余生を過ごしたか…。そんな開拓者たちに最後の「憩いの場」を提供してきたのが救済会だ。どれだけの移民ドラマを園子さんは見てきたのだろう。(深)