達弥と政義君は無事6ヶ月間の青年隊訓練を終了、そして地元で後6ヶ月の一般労務について所期の目的を果たすことが出来た。
それだけに日本語もかなり上達するようになり、精神的にも成長したことが充分伺えた。
「可愛い子に旅させろ」の諺は、まさに的中したものとつくづく感じ入ったものである。
今日まで家計を守るため懸命に働き親の手伝いを続けてきたが、3名のわが子たちが留学に旅立ち、一家空洞のようになり、家庭は沈静化してしまい寂しささえ感じた。
しかしながら、これまで与えることの出来なかった母国での勉強が可能となったことに親として、安堵感し安らぐ思いでもあった。
長女のかおるだけは大学に学ぶ機会を与えることが出来なかったことは、まことに辛く、返すがえすも残念である。
かおるはひたすら家族のために働き、親孝行そして兄妹のために身を捧げたことに心から感謝している。
三女清美は、医科大学を卒業し医療業務に熱中して結婚相手を探す様子がない。
将来に向けてどうにも気になってならない。時折援協のお見合い会に奨めるけれどもまだ一度も果たしていない。
彼女は援協の奨学資金を受けたため、ブラジル日系社会の巡回診療班で2~3年間働く義務があり関わりがあったので、このお見合い行事には何の遠慮もするなと説得するのだが、いっこうに耳をかす様子もなく、黙々と病院の医療業務に携わっている。
最近の若者には「結婚しない」、「子供を生まない」といった変な風潮があって、日本でも少子高齢化現象に困り果てているようだ。
私たちの世代にとっては全く困った時代現象としか言いようがない。
達弥にしても同じことが云える。孫が出来そうな年齢になってようやく配偶者を見つけのんのんとしている姿にはあきれかえってしまう。
今の若者たちは、その人生に夢や目標を見失っているのではないか?と思わざるを得ない。
次女の尚美は沖縄大学へ自費留学したが、1ヵ年の沖縄滞在ですっかり沖縄びいきとなり故郷ブラジルに帰省の気さえみせない。
親元の血のつながりがそうさせたのかと思っていたら、好きな相手がいたのである。
地球の表裏に存在する相互の立場からオイソレと見届けることも出来ず、一種の戸惑いを感じていた。
そこへ突然の国際電話がかかってきた。それは、1989年8月のブラジル佐賀県人会創立記念式典に県知事慶祝団一行が訪問し、その取材班に佐賀新聞の井上武記者が同行する。
その記者井上武こそが好きな相手だから是非会ってくれ、と現代子そのものの連絡であった。