5 移住80周年記念誌の編纂
私は、1975年3月以降、在伯沖縄県人会の役員にあてられて1990年まで15年間理事・監査役・副会長・会長として働いてきた。
特に1978年移民70周年記念祭典と会館落成の祝典に際し、記念誌作りの手伝いから毎年の広報(協和誌)作りの専任みたいになってしまった。
幸いにも10年後の移民80周年祭典には、宮城滋氏が理事として仲間入りして頂いたので、笠戸丸から80年の県人の移民社会の動静を眺望して記録に残しておきたいと考えて、80周年記念誌編集委員長をお願いした。
同氏は花卉園経営の多忙な身で遥々アルジァから往来し、その任に当り大変ご苦労なさって500頁余の大冊を編纂することができた。
特に2世、3世層の有能な人材発掘を目的とした調査を手掛けたこと(約70頁分の名簿)や戦前の沖縄県人会(球陽協会)の創立を記録した球陽協会『会報』創刊号の発掘など、貴重な資料の記録がかなえられたことは誠に意義深い記録誌となった。
同時に我々の先達による県人社会の基礎作りで苦労を重ねてきた功績とそれを受け継いで更に後世へ伝達すべく努力することは、必然的な働きであり、そのつながりを子々孫々に心のこもった正しい記録として伝える義務を我々は果たさねばならない。
その使命感を持って記念誌作りに挑むことこそ重要であろう。
その願いをこめて功労者でありながら面識のない県人会(球陽協会)初代会長翁長助成氏未亡人や城間善吉氏未亡人、更に笠戸丸移民の日系歯科医第一号の金城山戸の息女、日系2世第一号の金城ウトさんなど先駆者古老を訪ね、その足跡を記録に残すべく表敬訪問をした。
移民誰しもさけて通れない紆余曲折・幾多の試練をどう乗り越えて今日を築いてきたのか、その足跡の一端でもと思い、『移民80周年記念誌』より引用しながら纏めてみた。故 翁長助成氏ユキ夫人に聞く沖縄県人会である球陽協会は、1926年8月に創立されたが、その中心人物が翁長助成である。
1913年(大正2年)沖縄出身者の耕地逃亡者が多いと云うことで沖縄移民は「不良移民」のレッテルをはられて全面禁止された。
同16年に試験的にと解除されたが、同19年には再び禁止措置が取られ、「自費で呼び寄せ移民のみ」と制限された。
国策としての移民政策の中で、沖縄移民は不平等な差別を受けたのである。
勿論沖縄県人移民は、笠戸丸移民以来比較的人数が多かったので、夜逃げ・逃亡事件も目立っていたであろうが、実際には他府県移民も全く同じ事情であり、そのような事件が特別沖縄移民にだけ生起していた問題ではなかった。
この沖縄県人移民にたいする日本の関係機関の偏見と差別処置を撤廃するには、在留県人が結束し一丸となって訴えその対策を講じなければならない。
それが動機となって球陽協会が結成されたのである。