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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて =(78)=山城 勇

 その当時、総領事館職員となり、また報道機関に務めていた翁長助成は、この問題を解決する立役者として多くの共鳴者と共に立ち上がり、球陽協会を結成し、その初代会長となった。

 即ち、県人会創立50周年の原点である球陽協会が1926年8月に結成されたのである。
 第一回笠戸丸移民以来18年目にあたる。

 然もその目的が県人同士の親睦だけでなく、逃亡事件による「移民禁止」、「自費で呼び寄せ移民のみ」の制限などを撤廃し、移民の促進をはかる運動が主な目的であった。

 こうした問題解決の為に必然的に起こるべくして起こった組織がいわゆる球陽協会であり県人会創立の動機であり、その原点となった。
 翁長助成氏は、1964年3月20日に故人となり、現在サントアマーロ地区に在住のジャーナリストで著述家の山城ジョゼー氏宅で自適の生活を送っている翁長ユキ夫人(ジョゼー氏の義母にあたる)を訪ねて、その思い出を語ってもらった。

 

ユキ夫人―― 「翁長助成は1885年4月3日首里に生れ、東京商船学校を卒業した。
 1912年27歳の時、ペルーへ渡りアンデス山脈を同僚と二人で超えてボリビアに到着、2年後の1914年ブラジルに転じた。

 リオジャネイロやマット・グロッソを転々と廻り、後にサンパウロ市に移る。1918年サンパウロ邦字新聞「ブラジル時報」に入社、黒石社長の下で新聞記者として数年間働いたが、事情があって退き、一時日本語教師なども体験する。
 その後、総領事館に一時働いたが『日伯新聞』の三浦社長の要請で再び新聞社に転じた。

 やがて、城間善吉、仲嘉間美登らと計らって『日本新聞』を創刊して報道活動に身を投じた。
 その間、高岡さんに乞われて同仁会の事務長として日本病院の建設事業にも協力し、県人の球陽協会の結成にも多大な貢献をしたと思います。

 沖縄出身と云うことで常に県出身者の事は、先頭に立って世話していたし沖縄を愛していたが、移住して以来郷里に行ったことはない。

 

ユキ夫人―― 「私は群馬県の生まれで東京の三田で女学校を卒業して、叔父の家族となり1919年渡伯した。
 県庁職員だった父はまだ若いと云う理由で自分のブラジル行きに反対したが、二ヵ年して帰るからと両親の反対を押し切って日本を立った。

 翁長との出会いは、彼が『ブラジル時報』の編集長をしていた頃で、彼は37歳で私とは17歳の違いでした。
 その頃は『ブラジル時報』の石黒社長や『日伯新聞』の三浦社長など新聞関係の方々やブラ拓の加藤さん、同仁会の高岡さんなど多くの知友とコロニア社会の問題をよく論じておりました。

 翁長も生きているとすれば、今年は104歳になります。24年前に他界しましたが、私利私欲を考えず常に公益に徹した誠実な人間でした。

 昔をふり返って見ると、懐かしくその想い出は尽きません。