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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて =(79)=山城 勇

 翁長の意志を継いで現在は長男英雄『ジョルナル・ブラジレイロ』編集長、元植木大臣の補佐官をして10年間一緒に働いた)を筆頭に四男一女みんなジャーナリストとして新聞関係で活躍しています。

 

 現在、孫14名、ひ孫が11名で翁長一族は今やブラジルの大地に完全に根をおろしております。
―ユキ夫人は、このように話を締めくくった。

 故 城間善吉氏ウト夫人に聞くウト夫人が語り聞かせてくれた城間善吉氏の足跡を私なりに簡単に纏めてみよう。
 城間善吉氏は、沖縄県国頭村字安波に住む城間善太郎の三男として生まれ、1918年10月(大正7年)布哇丸で神戸港を発ち同年12月28日にサントスに上陸した。

 彼の兄善助は、1912年(明治45年)にペルーへ単独移民で渡航したが、ペルーは性分に合わず、チリー、アルゼンチンを経てブラジルに転じたペルー流れの移民である。

 その数年後、善助によって呼び寄せられマット・グロッソ州アキダウアナ町に移住する長兄嘉助の元に受入れられた。
 当時嘉助は故郷で覚えた理髪業を本職として当時のコロニア社会では珍しいケースの職業で、彼の技術とサービスに引かれてか千客万来の?昌振りであったと云う。

 その頃同じアキダウアナには大里村与那原出身の瑞慶村智寿一家も住んでいた。その二女ウトさんは蕾ふくらむ15歳、善吉青年は意気盛んな25歳で縁を結んだ。

 その後理髪屋は衛生上悪いということで生業をやめ、マット・グロッソからサンパウロ州のリンス市に移転してマカロン製造に転ずる。
 兄弟共栄のマカロン製造業は予想以上に発展し、その名声を高めていた。

 ところが兄嘉助の不測の病死と治療に打撃を受け、一時期は困窮状態に陥った。
 しばらく後に製麺工場を処分しサンパウロ市に出て日本新聞を手中にした。

 当時邦字新聞に経験をつむ翁長助成と『南米新聞』を買収し、翁長と共同して新たに手がけたのが『日本新聞』だった。
 しかし、両者の折り合いがうまく行かず翁長助成に総てをゆだねてアララクワラに居を移す。

 アララクワラで川上栄蔵や川上善俊等の支援と協力を得て、綿作に転ずる。
 当時アララクワラ地方には多くの日系子弟がいるにもかかわらず日本語教育に関心がないことを痛感した善吉は、さっそく日本語教室を開設、子弟の指導育成に奔走した。

 時あたかも世界二次大戦中で日本語教育が禁じられている折から、警察に拘束され一時投獄の羽目に至った。
 一方家庭では子供が増え、出費がかさんで家計を支えるために色々な仕事に手を尽くす。
 同時に県人の組織活動にも積極的に参加した。