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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=(80)=山城 勇

 特に戦後コロニア社会を席巻した勝組・負組抗争の混乱の中にあって、その正常化を叫びながら母県の戦災復興と救援運動、更に県人組織強化運動に多くの同志と共に寝食を忘れて活躍した。

 1950年前後においては、その戦災救援組織の中心人物の一人として、上原直勝、花城清安らと共に非凡な手腕を振って全伯沖縄海外協会=戦後の沖縄県人会の創設に尽力した。
 戦後の混乱からようやく落着きを取り戻した頃、移民50年祭典がコロニア挙げて繰り広げられた。

 

 その頃、サンパウロ農商銀行の創設を果たし専務として多忙な銀行業務のかたわら城間善吉は、『在伯沖縄県人50年の歩み』の編纂に傾注した。
 とぼしい財政をはたいて出版にこぎつけた氏のど根性は、コロニアから高く評価され、著書は大きな好評をはくした。

 ところが出版配本と本命の任務を果たすため東京に滞在中に脳梗塞で倒れ、以来7ヵ年間闘病生活を続けたが回復せず、ついに1966年68歳でこの世を去った。

 家族は長男が銀行務め、二男はUSP大学の医学部教授、三男は銀行、四男は税関吏、五男も銀行と皆大学を卒業し、五男四女の子福者。
 そして孫も14名曾孫4名で城間一家は繁栄したが、その成長振りを見とどけることなくこの世を去ってしまった。

 ウト夫人―― 私は、三歳の時に渡伯しているので、沖縄の父親が大里村与那原出身瑞慶村智寿ということ以外沖縄のことは何もわかりません。母はブラジルに着いて1年後お産のため死んでしまった。
 私は今年81歳になりますが、この通り子宝に恵まれましたが、経済的にはいつも貧乏暮らしで、生まれ故郷に帰ったことはまだ一度もありません。

 今後もおそらく行くことはできないだろう。
 子供の教育、夫の病気治療と永い間苦労して来ましたよ。明治45年に両親に伴われて沖縄を出て77年にもなるが、そんな長い間ブラジル生活をしている中にすっかりブラジル人になってしまいました。

 日本語も少々話せますが、それよりも父母の話した沖縄の言葉がまだよくわかる。
 それよりもブラジル語の方が私にとって便利で、子や孫たちとの生活はブラジル語だけなんですよ。

 と語るかすかな声は、疲れ果てた老婆のやりきれない切実さを物語るかのようだった。

 

 昔を想いおこしながらしんみり語るウト夫人は、悲運な先駆者の当時の姿をみせつけられた生き証人として、あるいはその姿をそのままとどめた数少ない老移民妻として、貴重な存在であることを痛感したのである。

篠原恵美子 | Emiko Shinohara

故 金城山戸さんの長女・篠原恵美子さんに聞く

篠原恵美子―― 1893年(明治26年)11月16日南風原村津嘉山319番地で長男として誕生、8歳の時、父と死別し母方の祖父母と共に暮した。