サンパウロ到着の際には食べる物も無く金は使い果たし、二人共駅で思案に暮れた。
幸運にも駅の赤帽が気付かって呉れて二人は日本人経営の小さな農園の矢崎節夫さんと云う人に会い、仕事を見付けるまでお世話になった。
二人は仕事探しに毎日出かけた。
そして或る日山戸はアウローラ街の右側、イッパチは左側の通りを尋ねている中に山戸は歯科医アルトウール・アルヴェス・フェイラ先生の診療所で月20ミル・レイスの給料で雇って貰い、イッパチは賭博場の門番として、主人の家に住み込みとなって雇われた。
山戸は診療所の掃除、患者の受付接待の傍ら、先生の仕事を熱心に見守り、その熱心さと手先の器用さに先生は山戸を一人前の技工師に育てるべく技法を教えた。
篠原恵美子―― こうして山戸は単なる助手でなく技工師として認定され、先生から技工師としての報酬を受けとることができた。
山戸は笠戸丸の同航者で運転手をしている人から医者兼歯科医の戸田良雄先生を紹介され、それ以来、度々戸田家を訪ね山戸と戸田先生は親密な関係になり、妻のイサミ夫人からも親しまれる仲になった。
そうしている中にイサミ夫人の妹が日本から来てグワタバラ耕地におり、1年間の契約から開放されて戸田家に着いた。
その歓迎会に日本料理をご馳走になりながら彼女との初対面をした。
会う前から山戸はイサミ夫人から妹の器量の良さをきいていたので二人はその日から好き同士になり相愛の仲となった。
その人が後の山戸の愛妻楠枝である。彼女は山戸より5歳年下で高知県の出身である。
1919年10月12日に長女が誕生、その後長男駒雄、次女美代子、と続いた。
次女は熊谷医師の妻となりました。
篠原恵美子―― 父山戸は、性格すこぶる温和にして明るく、社交性に富み、常に親切心をもって人に接し、曲がったことの大嫌いな人でした。
父は私たちが尊敬する立派な人格者だったと、誇りに思っています。山戸の学業について述べますと、彼は結婚して間もなく技工師としての仕事だけでは望み通り家族を養っていけないと思い、以前から計画していた歯科大学へ入学すべく勉強をはじめた。
彼はポルトガル語の個人教師に学び、更に大学入試の為の生物学、解剖学、化学等の学科を学び、ピンダモンヤンガーバ歯科大学に合格、1923年に歯科外科医の免許を修得しました。
こうして「歯科外科医―金城山戸」が誕生したのです。良い事尽くめで楽しい生活を送っている時、思わぬ悲報がやってきた。
祖父の死を知らせる1通の手紙でした。彼は小さい時、初孫として非常に可愛がって貰った祖父の死を涙を流して悲しんだ。