9月19日昼にレストランで、グループ2の現地ガイド、ポルトガル在住28年の日系ブラジル人三世、河内仁志さん(かわうち・ひとし、70)に話を聞いた。
生まれはサンパウロ州ポンペイア、日本語が実に達者で42歳までモジ市に住んでいた。勤めていた日本進出企業の建築会社がポルトガルEU加盟特需を見込んで、現地に支店を開設することになり駐在員としてやってきた。ところが日本の本社が経営不振に陥り、儲からない支社を閉鎖することになり、わずか4年で支社解散となった。
「ポルトガルは良い所ですよ。治安も良いし、本当に住みやすい。子どももここに慣れて、あちこち引っ越しするの嫌だというから、自分のコンサルタント会社を作って、そのまま居ついたんです」とのこと。興味深い人物だ。
河内さんは「僕が来た頃と比べると、別の国のようになりました。昔は人間が暗かった。ブラジル人とは人間性が異なる。たとえば会議やるでしょ。ブラジルと同じように冗談を言うと、不真面目だって言って睨みつけてくるような国だった。ムリもないんですよ。1974年まで独裁政権で、秘密警察が目を光らせていた。その名残りがあった時代」と振りかえる。
アントニオ・サラザールは1933年に独裁政権「エスタード・ノーヴォ(新国家)体制」を確立し、なんと戦後まで維持した。ブラジルのヴァルガス独裁政権も一足遅れて1937年から「エスタード・ノーヴォ体制」を作った。ブラジルとポルトガルは近代史までそっくりだ。
ヴァルガスは1945年末に軍クーデターでいったん失脚したが、サラザールはヨーロッパ史上最長の独裁体制を維持し、本人が死んだあと、なんと1974年まで続いた。とはいえ、ヴァルガスは1951年には選挙で選ばれて再び大統領になり、ブラジルの骨格ともいえる法体系や政治体制を作った。
ポルトガルは1945年時点でアンゴラ、ギニア、モザンビーク、カーボベルデ、サントメ・プリンシペ、インド、マカオ、ティモールなどの広大な植民地を領有する「海上帝国」を維持していた。大航海時代からの歴史遺産で国家運営していた訳だ。
ところが1960年に「アフリカの年」を迎えた。アフリカ大陸のフランス領を中心に17カ国が独立を達成し、脱植民地化が進んだ年だ。
ポルトガル領でも1961年にアンゴラ独立戦争開始、同年に独立したインド政府がゴアなどに武力侵入、62年にはギニアビサウ独立戦争、64年にモザンビーク独立戦争が勃発し、西ヨーロッパの最貧国には莫大な負担となり、71年の国家予算中の軍事費は45・9%を占めた。
これに国民が耐えかねて74年のカーネーション革命が起きて軍事政権が終わった。この無血革命で民衆は36年ぶりに自由を手に入れたが、新政権は脆弱で混乱つづきだった。
国民は生活が疲弊しきっているのに、75年には植民地だったアンゴラ、モザンビークほか3カ国が次々に独立を達成し、多くの入植者が避難民となり、さらに敗残兵が本国ポルトガルへ大量帰還を始めた。75~79年頃のリスボン市街は引き揚げ者が失業者となって溢れ、貧困に喘いでいた暗い時代だった。まるで終戦直後の外地引き揚げ者が町に溢れた日本を想わせる光景だ。(つづく、深沢正雪記者)
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ポルトガルに長期独裁政権を築いたサラザールの人生は、実に不思議な最後を迎えた。1968年8月にリスボン郊外の城で静養している時、昼寝中にハンモックから誤って転落し、頭部を強打して意識不明になり、奇跡的に意識を取り戻したのはなんと2年後。政権が後継者に渡り社会は動乱状態になっていた。だが、側近らは本人にショックを与えないよう、執務室を以前と同じ状態に保持して、動乱のことを一切触れない偽の新聞まで作って読ませ、本人が権力を失ったことで落胆しないよう配慮したとか。サラザールは執務室で何の意味もない命令書にサインする毎日を過ごした。偽の新聞を読んで晩年を過ごし、混乱状態にあることを知らないまま1970年に息を引き取ったとか。ヴァルガスもドラマチックな人生を送ったが、ポルトガルの独裁者の独特だ。