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回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(5)

 それからどれ位してからかは記憶に残っていませんが、そこにいる時、私は満人の豆腐屋で働きました。お金はいつも遅れがちでしたが、払ってくれていました。
 いよいよチチハルへ南下が決まりました。
 ところが、その家族(3人)が「南下せずにここでずっと働いてくれるなら(遅れている3カ月の)給料を支払うが、やめるならば払わない」と言うのです。ここで南下せずにいられるものかと思い、私は両親に話しました。両親も「3カ月でも、もらわなくて良いから、仕事をやめなさい。そうしないと日本へ帰れないから」と言ったので、3カ月分はタダ働きで南下しました。
 その家は、前には豆腐屋だったそうですが、奥さんがひどい喘息で、咳や痰が出て体が苦しそうでした。私はそこで奥さんの世話をして、炊事、洗濯、掃除をして働いていました。そこには1人息子がいたのですが、私には危険な事やあやしい事は一度もなく、心安らかに仕事をしていました。
 私が仕事をやめると言ったら、ドーノは「あんたは長く家で働いてくれて分かってくれているから良い。次にこんな人を雇うのは難しいから、続けれくれるなら遅れている3カ月分も払うから」と言いました。しかし、私が続けるわけはありません。1日でも早く日本に帰りたいのに!
 次にハルピン、チチハルと徐々に南下して来て、九州の佐世保に着いたのは終戦の翌年、昭和21(1946)年11月2日。ようやく懐かしい日本の地に上陸出来たのです。
 皆が病気を持っていたら大変だと思ったことでしょう、上陸するとすぐに私たち全員を消毒するのです。真白い粉(DDT)をかけられました。それから各自、自分の故郷へと向かいました。
 主家(おもや)の叔父さんの家族一同、心から私たちの帰りを喜んでくれました。おばあさんは81歳で亡くなっていましたが、他にいとこたちもみんな元気で、喜んで迎えてくれました。もうその時は、もうそれまでの苦労はすっかり忘れてしまっていました。
 2人の兄さんは、まだ帰りません。それからというものは、今度は2人のソ連引き揚げの新聞を母と毎日毎日見ていました。でもなかなか2人は帰りません。
 とうとうある日、上の兄さんがヒョロヒョロに痩せて帰って来たのです。もう1人の兄さんは、それからどれ位してからかは覚えていませんが、今度はこの兄さんは元気でプリプリに肥えて帰って来ました。始めはソ連できつかったそうですが、後では日本の兵隊に対してとっても待遇が良く、苦しくなかったということで、私たちはびっくりしました。
 こうして、私の家族は危険な目に遭いながらも、一家揃って無事帰国することが出来たのです。神様やご先祖様のご加護、御守護がなかったら、自分たちの力ではこうして生きのびて来れるワケがありません。ただただ感謝するばかりです。
 色々と書く事はまだまだ沢山あります。また、書きた忘れたことも沢山あります。ここで、面白いことを書き添えておきます。
 それは、私が働いていた豆腐屋の父子のことです。2人とも日本語がとっても上手でした。そのドーノがこんな歌を上手に唄っておりました。それは、
  ぼくは軍人大好きよ
  今に大きくなったなら
  お馬に乗って
  イドウドウ
と。