在京ポルトガル大使館サイト13年9月13日付けには《ポルトガル柔道の父死去》との文章が掲載されている。
《小林氏は、1958年に柔道の国際的普及活動の一環としてポルトガルに渡りました。当初は2年の滞在予定でしたが、2年後も帰国することなく、そのまま同国に居を定め50年以上の歳月を過ごされました》とある。享年88。同月9日に東京都内の病院で亡くなった。大使館の公式ページであり、ポルトガルにとって重要な日本人であったことは間違いない。
「ポルトガル柔道の父」小林清さん(九段、1925―2013年、群馬県太田市)の娘さち子さん(71)と大使館の交流夕食会で偶然会って話を聞いた。「父は講道館国際部から1958年8月、安部一郎先生と一緒にここへ派遣され、一団の中で一番若かったのが父でした。そしてここが気に入ったんです」とのこと。「安倍一郎」の名をネットで調べると講道館10段、1950年以降、欧州を中心に指導して回った有名な人物だった。
さち子さんは中学3年まで東京・神田にある共立女子学園中等部に通い、卒業してから父にポルトガルへ呼び寄せられたそう。ちなみに「鳩山薫子さん(鳩山一郎の妻、共立女子学園理事長)が校長先生の時代でした」とのこと。
1958年当時は独裁政権の真っただ中だ。「父から聞きましたが、サラザール大統領から直接こう言われたそうです。『ポルトガルの軍隊はアメリカと違って武器を持っていないし、買う金もない。国を強くするための兵隊を作るカギは精神力だ。日本のサムライ精神は素晴らしい人間的な成長力を持っている。兵隊が素晴らしい人間になれば、チャレンジ精神が生まれる。そう『柔道を広めたい』と思っていた時に、君がやって来た』と。それでサラザールの希望を受け、軍アカデミーや大学で教えるようになりました」。
パラグアイでも、一般市民には悪夢のようなストロエスネル独裁政権時代だったが、なぜか日系人はけっこう良く扱われたと聞く。ブラジルでも軍事独裁政権中に3人も日系大臣を輩出したし、サンパウロの日本移民70周年式典にガイゼル大統領が出席するなど、今では考えられない厚遇だった。
独裁政権を樹立するようなあくの強い政治家にとって、真面目で、言うことを聞く日系人という存在は扱いやすいというか、馬が合うのかもしれない。
ブラジルで「柔道の父」といえばコンデ・コマ、前田光世(みつよ、1878―1941年、青森県)だ。日本移民が柔道をブラジル社会に広めて、現在では五輪メダルの最多獲得競技にまで育った。小林清さんはコンデ・コマと同じように講道館から派遣され、ポルトガルに戦後居ついて広めたようだ。(つづく、深沢正雪記者)