また、これは引き揚げに関した事ではなく、在満中にいつも行っていた事です。
秋になり、雑穀物を収穫して家に運んできてから脱穀する時、キンタウ(裏庭)に平らに水をまき、凍らせてその上で脱穀するのです。地面に広く水を撒くと、何時間もしない内に凍ってしまいます。その上へ大豆でもとうもろこしでも高リャンでも粟でも、何でも広く丸く置きます。その真ん中に人が立っていて、くるくる回って手綱で馬を使い、丸い大きな石のセメントでこしらえたシートコンズという物で(これはすごく重く、馬がくるくる回って)実を落とすのです。
開拓団の家は全部、家の間隔、造作(ぞうさく)もすべてが同じに出来ていました。家の周りも広々しています。私たちが渡満した頃はまだ早かったからでしょう。周囲は全部土壁で囲まれ、角々には銃眼もありました。
満州事変後に日本が取り上げていた所ですから、敗戦すれば苦労して引き揚げてくるのが当然の事かと思う時もあります。一家揃って帰国出来たことを、有難く感謝しています。
話は変わりますが、北満では豚(ポルコ)を殺したら、半分に割って、もちろん腹ワタをきれいに取り除いてから軒下に吊るします。カチカチに凍るので、それを削ってきては貯蔵してある野菜と一緒に煮ておかずにします。豚もみんなの家でたくさん飼っているので、売る人も買う人もいません。
終戦するまでは、皆豊かに暮らしていました。色々思い出しては書きました。
満州から引き揚げて日本に帰ってきたのは終戦の翌年、昭和21(1946)年11月2日に九州の佐世保に着き、なつかしの故郷の土を踏んだのです。親戚の皆さんに大変喜んで迎えていただいた時のことは、いつまでも忘れられません。
それからすぐに、父母が渡満前に働いていた会社の社宅を借り、働き始めました。会社は叔父さんの家から、余り遠くありませんでした。引揚者には特別に衣類の配給もあったりして、有り難く思ったことでした。2人の兄は私たちより大分遅れてソ連から帰ってきました。
会社で働いている内に昭和24(1949)年3月10日に、私たちの結婚式の日が決まりました。相手は私のクニャーダ(義姉)の弟です。この人と結婚するようにと、満州で私の兄がクニャーダをもらう時に親同士が決めていたのです。いわゆる許嫁というものでしょう。
でもこの青年、いやまだ少年(小学6年生の次は満州では尋常高等小学校と言っていました)は、3年間の内には同じ教室で勉強をした人です。しかし私たちはどちらも何も話しもせず、すごく普通の生徒同士だったのです。
色白のやせ型で美男子、私には全然似合わない人で、鶏のオンドリとメンドリ、いやもっと差のある人でした。彼は体に似合わない程の働き者でした。
私が結婚した当時は、主人の父母と主人の弟2人、妹1人が居りました。主人の父親もきれいな人でした。昔、上海で銀行員をしていたそうです。大人しい人でしたが、胃がとても弱く、いつも薬を飲んでいました。私が嫁いでから3年もしない内に、胃潰瘍が原因で46歳で亡くなりました。私の長男・憲一が生まれた時は、もうおじいさんはいませんでした。
私の父は81歳で亡くなりましたが、長男と3つ下の長女を連れて、たまに顔を見せに行きましたら、とても良い子だと言ってほめてくれたものです。とても嬉しいことでした。主人の母親は95歳で亡くなりました。