二宮さんの指摘を受けて『ブラジル人国記』(野田良治、1926年、博文館)をひっくり返してみた。1880(明治13)年にアルツル・シルベイラ・ダ・モッタ海軍少将(後のジャセグアイ男爵)が天津で李鴻章と会見し通商条約締結の折衝をした帰路、11月16日に横浜に上陸し、3週間滞在(328頁)した。ブラジル人としては二人の日本公式訪問だった。
二宮さんは「その際、日本政府はブラジルと初めての平等条約を結ぼうと交渉しますが、結局うまく行きませんでした。欧米各国との不平等条約を解消したかった日本にとって、念願だったのです。結局はメキシコが最初の平等条約締結国になりました。ブラジルとは国交を結ぶ前ですから、外交ルートとしてはポルトガル大使館が仲立ちしたわけです」という。
さらに「この時に、ジャセグアイ少将は『日本もブラジルに移民を出す気はないか』という話をしているんですね」という興味深い事実を披露した。もしその時に日伯間に平等条約が結ばれていたら、南米初の日本移民はペルー(1899年開始)ではなくブラジルだったかもしれない。
二宮さんが指摘する二つ目の件、ブラジル軍艦「アルミランテ・バローゾ号」は世界周航の途上、1889年7月に横浜に寄港した船だ。
それに同乗していたアウグスト・レオポルド親王(皇帝ドン・ペドロ二世の孫)らがポルトガル公使の世話になった。前掲書330頁には《ポルトガル代理公使ロウレイロが万事斡旋の労をとり、館長ほか八名の将校は天皇陛下に謁見仰せつけられた。この将校中には海軍少将の資格で乗り込める皇子アウグスト・レオポルド親王があった》とある。確かにこの時もポルトガルが仲介している。
このような破格の待遇を受けたレオポルド親王は日本が気に入り、無謀にも便乗することを申し出た青年・大武和三郎を特別に許可した。まるで黒船で密航しようとした吉田松陰のようだ。ペリー提督は許可しなかったが、ブラジル軍艦は大武青年を乗せた。この最初の接触時点からすでに、ブラジルと米国の国民性の違いが表れている。
大武は翌1890年7月にリオに上陸した。だが、その航海の途上1889年11月15日、リオでは軍部クーデターが起き、共和制が宣言された。つまり帝政廃止だ。
《同親王はコロンボ(編註=スリランカ)にて皇族一同ブラジルから追放されたとの報に接し、同港で退艦》(331頁)。こうしてレオポルド親王は、生まれ故郷のペトロポリスではなく、ヨーロッパへ向かうことに。その頃、ポルトガルでも共和主義勢力が日に日に力を増し、親王にとっての安住の地は出なかった。1910年には共和主義者が蜂起して軍部の一部が賛同して首都を掌握、共和制を宣言し、本国でもブラガンサ王朝は滅亡した。(つづく、深沢正雪記者)
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