コーヒーの木が小さい時は間作といって、その間、色々な雑穀を植えるのです。米は中へ4通り、フェジョン、大豆、ミーリョ(とうもろこし)と色々な種を蒔きました。どこの家もポルコは太らせて売りますから、ミーリョが一番必要なものです。米の収穫などで、倉庫も建てました。
私の家は主にコーヒーの種類はムンドノーボ、ボルボン、スマトラという種を植えました。この種類の木は高くなります。もう1つはカツウラと言って、背丈が低くて横に張ります。これは普通のものと違って3米70糎位にマルカしておきます。
どのコーヒーも植えて4年目には、飲む分だけは獲れます。5年、6年、次第に成長し、花が真っ白に咲き始めたら、それこそ雪が積もったかのようになった時の嬉しい事ったらありません。忘れられません。
毎年毎年良くなってくれて、7年木、8年木になると、高い梯子へ上って採集しなければならない程になります。10年木頃からは、今年こちら向きが大成りだったら次の年はその反対側が大成りだという具合です。そうなると、収穫ばかりではいけません。肥料や消毒代もかかります。おかげ様で、私たちの植民地の者はロンドリーナの事業団の方が色々と援助して下さって、皆で借りたり払ったりしていました。
コーヒーの樹も、ここまで来るのには、ここには書き切れない程の苦労も色々とありました。テレイロ(コーヒーの乾燥場)も、何年も前から造ってあります。コーヒーのモンテ(山)の干しくるめ、これも中々の事でした。百姓には土曜日も日曜日もありません。本当に皆、一生懸命に働きました。でも主人はぺスカ(魚釣り)は好きでしたから、仕事を進めておいては、ぺスカに行ったものです。私も何回も何回も行きました。
こうしてみんなが喜んで働いている内に、急に主人が妙な事を言い始めたのです。「ホラ、倉庫を焼かれる」「ポルコ(豚)を取りに来た」「攻めて来た」などと言い出すのです。夜も昼もキョロキョロとして、何だかおどおどした様になりました。
始めのうちは本当かなと思ったりしましたが、これは青年の時、満州で夜のグヮルダのような事をしていた頃の恐ろしかったことを思い出したのだろうかと皆が思い始めました。実際、あの時は浜田の家は焼かれたことがあります。
普通には何ともなくいるのに、急に変になり、私や憲一が家の上の方にあるブドウ畠へ行って仕事をしていても、私の末っ娘、当時5歳の子に、日に何回も「早くお母ちゃんや兄ちゃんを呼んで来なさい。攻めてくるのに仕事どころじゃないから」と言って呼びに来させるのです。
何でもないのに…と思いながらも帰って来なければなりません。主人は戸口に立って見ているので、様子を見て少ししてからまた畠へ行きます。しかし、また呼びに来るのです。
あんなになっている時は、誰が何と言っても絶対に聞き入れません。パラナ州からマリリアの病院へも入院しておりました。しばらくして病院を退院してからも、食は進まず、いつも何かに恐ろしいというようにオドオドしている感じです。神経が高ぶっていたようでした。
少し良くなったかと思っていましたが、夜になって急に息苦しそうになり始めました。長男に言っておばあちゃんやおじさん達を呼んできてもらい、すぐに病院へ連れて行ってもらいましたが、途中で静かに息を引き取りました。1974年、6月6日、まだ満45歳にもなっておりませんでした。その時長男23歳くらい、末娘はまだわずか7歳だったのです。