「30年間、吟剣詩舞をやってきたなかで、こんなことは初めてだった」――。第32回祥こう流吟剣詩舞道大会。午前中の公演が山場にさしかかり、折しも森下祥星理事長(本名=和代、77、熊本県)が舞台を舞う最中、突然ブレーカーが落ちた。一瞬にして会場全体が漆黒の闇に包まれた▼若手ブラジル人による鬼気迫る剣舞の直後とあって、食い入るように見つめていた会場には、その瞬間、「あっ…」と動揺が広がった。真っ暗闇の中で誰もが気を揉み、ざわめきが起きるかと思われたその矢先、森下さんは間髪を入れずに、続きを吟詠しながら1分間以上に渡って舞い続けた。普通は録音音声、または吟者に合わせ舞う。というのも、詩吟と詩舞を同時にこなすのは体力的にも至難の業だからだ▼ところが、森下さんの声量は70代とはおもえない豊かさを保ち、最後まで衰えることなく、静まり返った会場に心地よく響き渡った。だんだん観客の目が暗闇に慣れる中、女性らしい淡いピンク色の衣装だけが、夜に映える桜花のごとく幻想的に浮かび上がるように映った。演技を終えると、息を呑んで見守っていた会場からは「あっぱれ!」と言わんばかりの拍手喝采が沸きあがった▼その後、電気も復旧し、無事再開された。だが、もしも経験未熟な演者であればこのような咄嗟の対応は出来ず、会場の雰囲気もまた違ったものとなっていただろう。まさに、30年もの研鑽を積んだ森下さんだからこその〃曲芸〃だった▼観客の多くの心を揺さぶったのは、森下さんのその機転のなかに、武士道を体現する日本人の強さを見出したからだろう。歴史上のその時々を生き抜いてきた日本人の心を込め、踊り吟ずるのが吟剣詩舞。森下さんは「ともかく狼狽して、醜態を晒してはいけない。そのことだけが頭を過った」との心境を振り返った▼新渡戸稲造著『武士道』では一章を設けて、女性の修練と地位について論じている。《封建社会において、男性が主君や国家の為に身を捨てたように、女性も身を犠牲にしてでも、家庭や家族のために尽すことが名誉とされた。(中略)夫が出陣して家を留守にする時は、女性が家の中の一切を仕切り、戦いの時は、家の防備を取り仕切ることもあった》。女の武士道だ▼狼狽して演技を中断することは、理事長である森下さんにとって、まさに祥こう流の名誉に係ること。停電に動じず、風に吹かれた桜花のごとく会場に映えた舞は、まるで武士道を表象するかのようだった▼「詩吟に込められた日本の心を知って欲しいと願って活動を続けてきた。小さな灯でも、この伝統をブラジルの地に残したい」――。そんな森下さんの覚悟が、次世代を担う若者にも胸に迫って、ひしひしと伝わったのではないだろうか。(航)