「画文集を出すなんて、初めてで最後だな」と謙遜しながら、恥ずかしそうにほほ笑むのは田中慎二さん(82、福岡県)。この『アンデスの風』(146頁)は、1950年代のスケッチから新聞の風刺画、本の表紙やイラスト、最近のアクリル画まで200点以上が網羅された「作品で見る自伝」だ。
のっけから霧の中のパラナ松という、実にブラジルらしい幻想的なアクリル画を掲載。コラム子は若い頃のスケッチに目を奪われた。躍動感があふれた筆致でサンタクルスの街並みが鮮やかに描写されている。アマゾン地方やミナスのイラストも。あちこちに挟まれる文章がまた、しっかりとした歴史知識に裏打ちされつつ、どこか軽妙だ。
移民画家はそれなりの数がいるが、「イラストレーター」「装丁家」はむしろごく珍しい。日本で出版された斎藤広志著『外国人になった日本人』(サイマル出版会、1978年)や岩波少年文庫『太陽通りのぼくの家』のイラストも手掛けた。つまり日本で通用するレベルの仕事だ。
田中さんが長いこと手伝っている人文研では研究論文のほか、『移民画家・半田知雄・その生涯』なども執筆した。文才まで持ち合わせている多芸な人だ。今までさんざ他人の本の装丁やイラストを主に手掛けてきた。コロニア出版界の「縁の下の力持ち」のような田中さんが、今回初めて自分の画集を作った。
大都市・博多生まれだが、家族の都合により田舎で育った。高校のとき担任に「美術学校に進学したい」と相談した。先生は親身になって、「父上に『絵描きになる』といったら反対される。だが、これからは産業の時代。図案家は将来有望」とわざわざ家まで両親を説得に来てくれた。その高校では、ただ一人の美術学校進学者となった。
青年時代からそんな尖がった部分をもち、風来坊の虫も腹の中に住みついていた。
大志を抱いて上京し、多摩美術学校図案科へ。「叔父が東京で彫刻家をしていたので頼って上京し、そのアトリエで一生懸命デッサンに励んで入学した。だがもともと学校とか好きじゃなかった。どうしようかと思っているときに、兄から『南米でも行かんか』と誘われ、その気になった」と振り返る。
2年であえなく中退、1955年からボリビアのサンファン移住地へ。文化人類学者で東京大学東洋文化研究所の泉靖一教授が自宅にたまたま泊まり、人生が一変した。「家が移住地の入口に近かったからか、泉先生が泊まった。僕の絵を見て、『サンパウロに出る気持ちはないか。パウリスタ新聞の社長とアミーゴだから紹介するよ』と言われた。
その後、同新聞社の太田恒夫記者が移住地に取材に来て、ボクを見つけて『話は聞いている。机を用意してあるからいつでも出てきて』と言ってくれ、入社を決意した」とのこと。
60年、パ紙に入社してイラストや政治風刺画を描いた。福岡、東京、ボリビア、サンパウロと数年で転々とする流転の人生を送って来たせいか、また風来坊の虫がうずきだした。
パ紙も3年で辞め、出聖してすぐに知り合った宮尾進さんに呼ばれ、コチア産業組合中央会の雑誌『農業と協同』誌でイラストと記事を担当した。「宮尾さんは好きにやらせてくれた。あちこち取材にいってイラストと記事を書いた。けっこう楽しかった」と振り返る。
そんな本業の傍ら都合、4、5回ほどアンデス地方をスケッチ旅行して回った。一番思い入れがあるテーマらしい。サンパウロには居ついたが、風来坊の虫をなだめるにはアンデスが良かったのかも。「サンファン時代に、友達と貧乏旅行で最初にアンデスへ行った。それが楽しくてクセになった」と笑う。
個展は文協貴賓室1回、デコ画廊2回に加え、サンパウロ美術館(MASP)友の会スペース3回、英国協会、米国協会と一般社会向けにも広く開催してきた。
今回の画文集は残念なことに、わずか100冊限定。「世話になった人に配ったから、もうほとんど残ってない」とか。まったくモッタイナイ。残部は人文研(文協ビル3階、電話11・3277・8616、メールcenb65@gmail.com)で100レアルにて販売中。(深)