その上、作品をじっと見ていると、自分があの石器時代に紛れ込んだような錯覚まで起こす。
不器用な私も、みなと同じように石を削ったに違いない。しかし根気のない私はすぐに投げ出してしまった事だろう。そんな途中で投げ出した不出来な発掘品も今、手元にいくつかある。これぞ本当に前世の私の作ったものに違いない、と思うと、これまた愛着が湧く。
ときどき箱を開けてじっと見る。胸がどきどきする。一人ほくそ笑む。どんな場所で? どんな人が作ったの? どんな話をしていたの? と話しかけてみる。周りの森の姿や、川の流れが目に浮かんで来る。私の幸せな時間だ。
ある日娘が来て言った、
「年を考えて、いい加減身の周りを整理してちょうだい。こんな石斧や、石の矢じり、石の刃もの、残したって誰もほしがらないわよ。すばらしいジュエリーなら別だけど」
「賛成」と横から孫までが大声で言った。
―――――ムッ!
そろそろ本気で身の回りを片づけないといけない。子供たちには欲しがってもらえないものがたくさんある。
かといって捨てるなんてトンデモナイ。せっかく集めたのに、いただいたのに…売ってしまう勇気はない。困った執着だ。
誰かにあげる? 友人は皆年寄り。右を向いても、左を向いても「そろそろ片づけなくっちゃ」という者ばかり。
もう人生、何にも心配事はないと思っていたのに、ここに来て、にわかに発掘品をどうするかという悩みが出てきた。
コマッタコマッタと言いながら家の中を歩き回るが、良案は出てこない。やっぱり私の棺桶に入れるかな。
五〇〇〇年後に発掘されて、「ありゃりゃ、二一世紀初頭の地球人が使っていた、コレ台所用品?」なんて宇宙人の間で話題にされるかも。
(二〇一三年)
細工師 ステービスのこと
いつ、だれから紹介されたのか、どうしても思い出せない。ともかく二〇年も昔から知っている宝石細工師ステービス。とっくに七〇歳を過ぎている。
若いころイタリアから来たと話したことがあったが、きっとイタリアの田舎の人だろう。だってちっともかっこよくない男だ。
どこにでもあるような、三度見たって覚えられないような平々凡々の特徴のない顔、ちょっと猫背の中肉中背、頭髪の薄さが私の父の後姿に似ていて懐かしさをよぶ。でも善良さ誠実さ真面目さが顔中から、体中からにじみ出ている。
高価な宝石を預かる仕事にはうってつけの人だ。穏やかな考え深そうな落ち着いたものの言い方が私は好きだった。
ごつごつした指は、とてもこの人が繊細な宝石の細工をする人とは思えない。でも器用というのか、ほかの細工師がどうしても直せないものも、彼の手になると魔法をかけたように直るのだ。仕事賃は安く仕上がりは完璧だった。
「今どんなのを作っているの?」
すると彼は「ほーら」といって見せてくれる。ごつごつした手のひらから出てくる宝石はため息が出るような品ばかり。
時には、「今、ティアラを頼まれたんだ。ダイアを六〇個はめ込む。できたら見においで」世の中は不景気というが、彼の所にはこんな豪華な注文が度々くるらしい。センスの良さと、真面目な仕事ぶりを認められているからだろう。