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一人の学生親善視察が蘇えらせた日系移民の英才たち=ビラ・カロン在住 毛利律子

日本大学南米研究会幹事の木村半さん(前列中央)を歓迎する、ブラジル側の学生連盟の皆さん。錚々たるメンバーが参加した

日本大学南米研究会幹事の木村半さん(前列中央)を歓迎する、ブラジル側の学生連盟の皆さん。錚々たるメンバーが参加した

 1939年(昭和14年)7月11日15時、初代「あるぜんちな丸」が横浜港を出港して、横浜を出港して世界一周の処女航海の途に就いた。その船に、外務省、拓努省、貿易組合中央会の援助を受け、学生親善視察として乗船していた一人の青年がいた。その人は日本大学南米研究会幹事・木村半(きむら・なかば)20歳であった。
 7月12日付け東京日々新聞朝刊に、「学生親善使節 昨日南米へ」との記事が出た。日本大学貿易科日大南米研究会幹事世田谷区世田谷の411、木村半(20)は中南米各地の邦人発展状況を視察すると共に、南米各国の学生と交流するため11日、横浜出帆のあるぜんちな丸で壮途にのぼった、と報道され、また伯剌西爾時報8月27日号には、同氏が挨拶のため来社したことが記されている。
 私はこのたび奇遇にも、当時を語るセピア色の、それらは後日、ブラジル日本移民史料館に寄贈されることになっているが、数枚の写真を直に見る好運に恵まれた。
 そのご縁を作ってくださったのは、サンパウロ州ボツカツ市在住で、Universidade Estadual Paulista (Unesp)大学の正教授を務められていた肥田・ミルトン・正人医師である。
 肥田ご夫妻により、半氏の御子息・日本経済新聞編集局編集委員の木村彰氏を紹介され、そして彰氏から父親半氏の経歴を伺い、数枚の当時の写真を預かることになった。
 それらの写真の中でも圧巻の一枚は、1939年「あるぜんちな丸」がサントスに寄港し、9月7日木曜日夜にサンパウロ日本人倶楽部で邦人第二世交換スキヤキ会が、半氏を囲んで催された際の集合写真である。
 その場に会した人々は、ネクタイに背広姿の男生と、上品な装いの美しく若い淑女たちである。いかにも古き良き時代を象徴するように、端正で知的な表情をしている。
 最も印象的なことは、カメラに向けられた全員の真っ直ぐなまなざしが逞しい意志を秘めていることだ。みなぎる若さ、燃える情熱がほとばしり出るような風貌に圧倒されるのである。まさにブラジル移民の開花時期の、力強く、自信に満ち溢れている人々の心意気を物語っている。
 その写真に写る全ての日系人学生の消息は肥田医師によって判明されたが、その経緯は次のようなものであった。

「存命の方がいたら、ぜひお礼を…」

 2015年11月27日、日本経済新聞社がサンパウロで「日本ブラジル医療セミナー」を開催した。
 彰氏はセミナーのモデレーター(司会をしながら討論にも参加し議論を進める役割)を務めることになり、渡伯前に父・半氏にそのことを報告した。
 すると、父親から「昔、サンパウロに行った時、日系人の大学生に歓迎会を開いてもらったので、もし存命の人がいたらお礼を伝えてきてほしい」とその集合写真を手渡されたのであった。
 しかし、彰氏にはブラジルに伝手はなく困惑していたところ、海外で眼科医療支援をしているある大学教授から、ミルトン肥田医師を紹介された。
 肥田医師に写真のコピーを送ると、名前・学部の記述から、たちどころに写真に写る全ての日系人学生の消息(日系人初の下院議員や医師となって第2次大戦に従軍など)が判明した。
 存命者は唯一、初の日系人女性弁護士となった「ハガ・マリアさん」であった。104歳という高齢で寝たきりでもあり、またサンパウロから700㌔離れた所に住んでおられるとのことで、残念ながら会うことはできなかった。
 ところが、「第2次大戦で軍医としてイタリア戦線に従軍した医師ウジハラ・マサアキ氏の娘がサンパウロにいるので、会わせてあげる」との連絡を得て、セミナー終了後、サンパウロ市内のホテルでその娘さんご夫妻、肥田医師ご夫妻と彰氏の5人で昼食を共にして、互いの父親の話を中心に歓談した。
 大戦では、半氏は陸軍兵士として中国戦線に加わり、1939年に親しく交流した日系移民大学生のウジハラさんと半氏は、その数年後には敵味方に分かれて戦っていたことが分かった。(ブラジルは連合国側、日本は3国枢軸)

蘇る英才たちの肖像

 前述のように写真の中の全員の名前・学部の記述から追跡し判明した消息をもとに、その名前を紹介したい。
◎写真中央に白い背広姿の半氏。
◎写真向かって右に、平田ススム連邦議員、村井シゲコ(教育学・師範学校)その真後ろに北村トシコ(商学部)。
◎写真向かって左に野村氏(普及会)。
◎その隣がマリア・ヨシコ・ハガ(日系人初の女性弁護士で、彰氏が来泊した2015年は104歳で建在であったが、その後、逝去の報を受けた)。
◎後列、向かって左から、ウジハラ・マサアキ氏(医学部・日系人初の医師1913-81)。その隣に阿部三郎氏(普及会)。
◎ドトール・マリオ・ミランダ。
◎井上タダシ氏(コチア産業組合会長・1992年没)。
◎田村幸重(日系人初の国会議員1915-2011)。
◎ヒロタ・マサミ(工学部)
◎ジョゼ・山城・リュウセイ(工学部化学科ジャーナリスト・2011没)
◎高畑清(法学部・大阪出身1910-68)
◎久田ヤスユキ(医学部)
◎ナリトミ氏(領事館職員)
◎そして、向かって最右端、芳賀貞一(法学部・弁護士・2011年没。両親は1908年第一回移民船でブラジルに渡った)
 この記念すべきスキヤキ会の集合写真だけでなく、半氏は「灼熱(カリオカ)の美都リオの豊かな表情」(半氏の言葉)と題して、9月9日にリオへ入港し市内観光した際の写真もアルバムには残っている。
 例えば、コルコバードの丘のキリスト像、コパカバーナ海岸、サンマルティン像、テアトロ・ムニシパル(中央劇場)、アベニーダ・リオ・ブランコ(白河大通り・すべて半氏の表現に由るものである)と自筆の説明書きがある。ゆるやかに時が流れていたであろう、リオの風景を遺している。
 さて、「あるぜんちな丸」は総トン数1万2755トン、全長167.3メートルの「国策豪華船」と呼ばれた豪華さを誇ったが、太平洋戦争中に空母に改装されて「海鷹」になった。処女航海は7月11日から10月17日のおよそ3か月であった。
 航海中は、選りすぐられた美少年のキャビンボーイの接待を受けて、カクテル・パーティー、二日おきに催された映画、ダンス、芝居の上演。甲板ではガーデンパーティーと称されたすき焼き、寿司、ビフテキ、バーの出店が立ち、プールに魚を入れて魚釣り大会を楽しむ、といったプログラムが組まれていた。(wikipedia参照)
 赤道近くを超えたころ開催された船上運動会に参加した半氏の一枚の写真は、長旅の疲れも感じさせない清々しい青年の笑顔である。その時に詠った歌が印象的である。
「今のわが船の位置を示せる海図見れば、目にしみて赤き赤道線の近く」
「島かげも全くなくなりていく日、水平線は弧線となりて見ゆ」
 半氏は帰国後の1940年(昭和15年)4月25日には、サンパウロ大学訪日親善視察団一行の学生、マッシャードさん、ヴェチアッテさんを鎌倉見学に誘っている。

百まで生きる人は、健康情報を持っている家族と友人に恵まれている

航海の途中、インド洋上で行なわれた運動会での一枚。右が木村さん

航海の途中、インド洋上で行なわれた運動会での一枚。右が木村さん

 半氏は2017年(平成29年)7月28日、老衰のため自宅で永眠した。享年96歳の長寿であった。
 彰氏によると、「父の晩年は、他の多くの高齢者とは明らかに違うものでした。大きな特徴が、『自分の死は自分でプログラムする』という姿勢です。流行の「終活」を早くから周到に準備し、実践したのです」。
 人生の幕が下りるのは20年後になるが、70歳台半ばで心臓の大手術を受けたあたりから体力や気力の衰えを感じたのであろうか。ゴルフ会員権を売った金で鎌倉霊園に墓地の区画を購入して墓石を建て、有田焼の骨壺まで(夫婦で2個)買う。近所に葬儀所が新設されるとすぐに見学に行く。葬儀の形式にも強いこだわりがあり、「一般的な仏式ではなく音楽葬にするように」と望みました。モーツァルトの二枚のCD(クラリネット協奏曲イ短調K622とアダージョK618)を渡され、その思いを尊重して、式の間、繰り返し流された。
 身辺の整理では、撮り溜めた大量の8㍉フィルムをDVDにしたり、幼少期からの写真のアルバムを整理した。
 「かつて商社マンとして海外で働き、家族と過ごした『最も輝いていた時代』の記録をまとめる作業は、父にとって至福の時ではなかったかと思います」と、彰氏は感慨深く思い出を語っている。そして、
 「このような態度は、天災や戦争で大切なものを数多く失ってきた人生から培われたのかもしれません。生家を大震災で、戦友を戦争で失い、高度成長下、経営は盤石と信じてやまなかった会社までもが倒れて霧消してしまった虚しさが、自分の力の及ぶところは自分で決め、守りたいと考えた所以だと思います」
 モーツアルトをこよなく愛した半氏。1991年には、鎌倉、藤沢の愛好者約100人を集めて「湘南モーツァルト愛好会」を旗揚げし、プロ・アマの演奏家による演奏を楽しむというサロン形式の集まりを企画し、多くの人々と楽しみを分かち合った。
 ドイツ駐在時代からクラシック音楽に親しんでいた半氏の部屋から、ある日聞き慣れないリズムが聞こえてきた。それは、「真珠採りのタンゴ」で青春時代に南米で聴いた華やかなメロディーは長く父の心に流れていたのではあるまいか。ひょっとしたら、「あるぜんちな丸」の船上で聴いたのであろう。
 晩年に熱心に取り組んだのが俳句であった。実家の近所に住んでいた俳人、星野椿さん(高浜虚子の孫、虚子の家も近かった)に師事し、さらにその息子の星野高士さんの句会に参加し、鎌倉市内をよく吟行していたという。
 彰氏によると、父の母(祖母)が多くの短歌を遺した人で、その才能を受け継いだのであろうということであるが、それは、
 「転変の激しい時代を生きた人生観や死生観を映したものといってもいいと思います」と語っている。
 今日、日本は100歳を健康で長生きする時代に入った。半氏は亡くなる一年前まで、絵を描き、カレンダーは予定がぎっしりと書きこまれていたという。長寿は遺伝であり、運の良さで決まるといわれ、百まで生きる人は、健康で長生きする情報が入ってくる友達、家族を持っている、ということである。一人暮らしで百まで生きることは、なかなか難しいともいわれる。
 非常に恵まれた条件で長寿の幸福感に満たされる人も多くなってきた昨今、その長い歳月の歩みをたどると、半氏にとって、20歳の海外親善の旅の経験が果報な人生へと跳躍させたように思う。
【資料提供=木村彰氏】
「父の終活」
「日本ブラジル医療セミナー」2015年11月28日付けの日経夕刊記事
肥田医師日本人居留地への巡回医療2015年12月26日付の日経夕刊記事