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どこから来たの=大門千夏=(27)

 これを左手の平に置くと、その端を右手でつまみ、スルスルーッと引っ張った。ペーパーはくるくると左手の中で回って、右手は頭より高くまで上がった。まるで運動会の旗手のようだ。大分の長さになると丁寧に根元をちぎって、残りのトイレット・ペーパーは、またきちんとカバンの中に収められた。
 彼はその切った紙を正確に八つに折って、持って立ち上がるとトイレにすすすと歩いて行かれた。ふーん。ブラジル紳士はトイレット・ペーパーを一巻きもって歩くのね。
 国が違うとエチケットもちがうんだ。

7 雑巾がけ

 ブラジルに来て三ヵ月目だった。丁度五〇年前のことである。
 ある日系コロニアの有名な方の奥さまを紹介されたのでご挨拶に行った。
 「コロニア一賢い婦人で、コロニア一教養あるご婦人である。この奥さんのおかげで今日のご主人がある」とも聞かされた。
 ちょうど土曜日だったせいか数人のお客様が見えていて、ご主人の周りには「とりまき」らしき男性が五?六人いた。話している言葉の端端に、ご主人を持ち上げるようにして気を使って、大層へりくだっているのがわかる。主は安楽椅子に座って、目をらんらんとさせ体を左右に振り、取り巻きに話をしている。とてもユーモアがあるらしく、時折みんながどっと笑う。背中の大きなクッションが主の興奮のたびに左右に動く。今にクッションが飛び落ちるのではないかと、私は気にかかり応接間の端からじっと見ていた。
 窓には白いレースのカーテン、壁にはコロニアの画家の絵、しかし古びた家具ばかりが目立った。窓辺に丸いテーブルがあり、その上に透明なクリスタルの高さ四〇㎝くらいの花瓶が置いてあった。ビールが出たり、おつまみが出たり、奥さまは忙しそうだ。私は特別用事があるわけでないので、おいとましようかなと思った時、風が大きく吹いた。
 その拍子にカーテンはクリスタルの花瓶に巻き付いて、そのまま潮が引くように窓際に引っ張られて、花瓶は横倒しになり、テーブルから転がり落ち、大きな音とともに真っ二つに割れた。床は水浸しになった。
 この音に家族みなが集まってきた。すぐに割れたガラスは若い女性の手でとりのぞかれた。
 次に夫人が雑巾を持ってきた。机の下に無造作に投げおいてから、彼女はやおらスカートのすそを少し持ち上げて右足を雑巾の上に置いた。そのまま体を斜めにして右足だけをせっせと動かしてテーブルの下の水をふき取っている。
 片足で雑巾がけ! あっけにとられてじっと見ている私。日本にいる日本人が見たらなんていうだろう――これがブラジルの習慣?
 「雑巾は両手で使うものです」ではなくて「雑巾は片足で使うものです」
 なんて気楽な国だろう。びっくり! ブラジルに来て最初のカルチャーショックだった。

8 お葬式

 私たちがブラジルで初めて買った家は夫の希望どおり郊外の高台にあった。家の前には小さな空地があって、その向こうななめ下に大きな平屋が見える。前が住居で中庭を挟んで後ろが幼稚園。娘はここに通っていた。四〇数年前の事だ。