伍長を手伝い、川のすぐ近くまで遺体を運んだ。伍長は小刀を遺体の胃の辺りに刺し込むと一気に臍まで引いた。裂けた場所から青っぽい液体が出てきた。
液体を見た伍長は「肉が悪くなっている」と笑い、遺体を川に蹴り落とした。
◎
伍長は洞窟から一歩も出なかった。炊事や水汲みなどの仕事は、全部半沢さん達がこなした。
その内、毎日一日中砲弾が飛ぶ音が聞こえるようになった。用足しやご飯の時間にも砲撃の音が鳴り響き、夜にゆっくり眠ることができなくなった。
またしばらく経った頃、砲弾の音がぱたりと止んだ。伍長に「上にある原住民の小屋まで行って様子を見て来い」と命じられた半沢さんは、八郎と一緒に小屋に戻った。
小屋の側に座っていると、子供も混じった20人ほどの原住民の列がこちらに来るのが見えた。
到着した原住民は半沢さんに「戦争が終わった。日本は負けた」と告げ、漢字が一杯書かれたビラを差し出した。
半沢さんは漢字が読めず、伍長のところに戻りビラを見せた。伍長は「8月15日に戦争に負けたので、日本人は皆帰国しなきゃならないと書いてある」と内容を読み上げた。
原住民のところに戻ると、子供が米国製のお菓子を食べていた。原住民は「これを食べてみろ」と半沢さんにもお菓子を渡し、「お前らもお菓子を取りにいかないか。今から行けば夕方に戻れる」と熱心に誘った。
米軍の輸送機が誤って森の中に落とした荷物の隠し場所があるらしい。
半沢さん達は初めて食べたお菓子に惹かれ、伍長の許可を貰って原住民について行った。
原住民の部落に着いた。中に入ると、原住民たちはバラバラに散らばり、話しかけようとしても遠くに離れていってしまう。薄暗くなってくると、「今日は泊まって、明日の朝小屋に戻れよ」と話しかけられた。
その後も一緒に狩りなどに参加させられ一カ月ほど村にいた。逃げようにも見張りが四六時中つくなどして下手に動けなかったそうだ。原住民は一緒に住ませようとしているようだった。
珍しく原住民の付添いもなく、部落の広場に一人でいたときのことだ。「あんたダバオにいた子だろ!? 私知っとるよ」と同い年くらいの女の子にいきなり日本語で話しかけられた。
日本人の女の子だったが、肌は色黒、原住民と同じ服装をしていたため原住民の子と思い込んでいた。
半沢さんが「そうだ」と返事をすると、女の子は「私の父ちゃんはダバオ通りに住んでいた」と早口で話した。女の子の勢いについて行けず、半沢さんはダバオ通りの場所を思い出そうとした。
女の子は「私の父ちゃんは◎◎という名前だった」と立て続けに喋り、半沢さんの返答を待たずに走って行ってしまった。独身の男女は話してはいけない決まりだった。
それ以降女の子の姿を見ることはなかった。(つづく、國分雪月記者)