バールの主人は毎回食べ物をあげるだけで追い立てるようなことはしない。心ひろい人なのだ。
そのうちマットをくれる人が現れた。待てば海路の日和かな。じっとしているだけで必要なものがなんでも集まるではないか「乞食を三日したら止められない」というが、この国だと「乞食を一日したらやめられない」次の日は大きな安楽椅子に座っていた。ふかふかの両肘付き、我が家の椅子より上等だ。狭い舗道の半分を占めている。
それでも誰も文句を言わない。それどころか果物をあげる人、駄菓子をあげる人、衣食たって寝具もたって不足しているのは屋根だけ、屋根さえあれば何日でも生活できそうだ。二週間いただろうか。ある日、急にどこかに行ってしまった。あれだけすべてが整って、近所の人たちの思いやりがあって、至れり尽くせりだったのに何が不足だったのか。
後には安楽椅子、毛布、マットなど貰ったもの、使ったものが散乱していた。この様を見たら「掃除くらいして行け」と、私ならカーッとくるのにブラジル人はおこりもしない。ごくごく「平常心」なのだ。乞食と付き合いなれているのか、大人なのか。
それにしても何が気にいらなかったのだろうか。
皆が良くしてくれてうるさくなったのよ。干渉されるのが嫌だったんでしょう。と友人は言った。それにしてもブラジル人の温かさ、寛大な性格に改めてびっくり。(二〇一三年)
第三章 どこから来たの
父の思い出
友人の桃子とリベルダーデで落ち合った時、彼女は車付きの袋をゴロゴロと引っ張って現われた。小さな桃子が引っ張ると、やたら袋は大きく見える。
「ねえ、私たちは日本人の店を応援しなきゃねえ。そうしないと日系の店はみんなつぶれてしまうわよ」そういって彼女はわざわざメトロから遠い日本人の店に買い物に行く。歩道は穴ぼこで年取った桃子には「ねんざ」が待ち構えている。これまで二回も足をくじいた。それでも懸命に袋を引っ張って買い物にゆく。
その後ろ姿を見ながら父のことを思い出した。
父は商売が大好き、売り買いして儲けることが何より好きな男だった。そのおかげで私たち家族は戦後といえど何不自由なく生活できていた。
昭和二二?二三年のころで、住んでいた広島には、まだ、がれきが至る所に積まれ、戦争の傷跡が町中に残っていたが、外地から、疎開先から人々が帰ってきて、街には活気がみなぎっていた。
父は養子だったせいか、それとも無頓着な性格だったせいか、母がどんなに派手な生活をしていても、朝寝、昼寝して家事をしなくても一向に文句も言わなかった。
時々母が「まあこんな男は珍しいわね」と感心していたほどで、商いさえしておればそれだけでご機嫌。飾り気なく洒落っ気なく、気どりもなく地そのまま。冗談が大好きで、周りの人を良く笑わせ、酒を飲みに行っても「お座敷」は嫌いで、「飲み屋」専門という庶民派だった。
そんなわけで人の出入りも多く、父の店には(香料商をしていた=においの原料)いろいろな人のにぎやかな話し声が終日絶えず、そして夕方になると香料と関係ない行商人までがやってきて、大声でおしゃべりするのが常だった。