ある日、部落の入り口で原住民が騒いでいる音が聞こえた。見に行くと、半沢さん達を探す伍長が原住民と怒鳴りあっていた。
半沢さんを見つけた伍長は「俺はこれから米軍の収容所に行く。お前らも皆行かなきゃならん」と告げて行ってしまった。
数日後、またも見張り役の原住民が不在だった。半沢さん達は「ちょうど良い」と部落を脱出し、米軍の収容所に向かうため蛇行した下り道を進んだ。
すんなりと部落を出られたものの、半沢さん達の足取りは重かった。「先を急がなければ」という気持ちはあったが、「米軍に捕まったら殺されてしまうのでは」という恐怖は消えなかった。
下ってきた道の上から声が聞こえた。弟と隠れて待っていると、半沢さん達の見張り役だった原住民と日本兵が喋りながら降りてきた。
日本人の姿と毎日寝食を共にした原住民を見た八郎が安心したのか、原住民を驚かそうと「ワッ」と前に出てしまった。半沢さんは心の中で「馬鹿野郎!」と大声で罵り、原住民は2人が部落から逃げだしたことに激怒した。
日本兵について米軍の駐屯地に行くことになった半沢さん達は冷や汗をかきつつ、日本兵に体をぴったりくっつけて歩いた。
たくさんのテントが設置された駐屯地に着いた。兵隊と別れて身体検査などを受け、2日ほど泊まった後、大型車に乗せられて港にあるもう一つの収容所に向かった。
半沢さんが乗せられた車の前後に2台ずつ、米兵が乗ったフォードGPがついていた。各GPに通訳係の日系米兵が乗っており、車が止まると一番先に降車してほかの兵のためにドアを開けていた。雑用で走り回り、使用人のような扱いを受けていた。
フェンスに囲まれた大きな収容所に着いた。収容所内は4つの区画に田の字型に分けられ、中央に米軍の事務所が設置されていた。
友三郎さんは弟と一緒に第4区の孤児院に入った。ほかに2~30人の孤児がおり、その中に同じ学校の上級生も1人いた。
その上級生は日本兵の一団に家族を殺されていた。上級生はその日、両親に頼まれ川で洗濯をしていた。洗い終えた衣服を抱え家族のもとに戻ると全員死んでいたそうだ。怪我で動けなくなった日本兵も一人残されていた。
その日本兵の説明によると、一緒に行動していた数人の兵隊が上級生の家族に食糧を求めた。家族は「私達の分がなくなってしまう」と拒否し、殺されてしまったそうだ。兵隊達はその場で食事し、動けない兵隊を残して先に進んだ。兵隊の手元には手榴弾が置かれていた。
上級生はその場を離れた。砲弾の音が止み静けさが戻った夕方、爆発音を聞いたそうだ。
◎
収容所では病気や栄養失調で死んでしまう人もいた。
死が近いと判断された人はフェンス沿いに建てられた1人用テントに「遠隔治療」と言って運ばれる。そのまま放置され、死ぬのを待つ。
その中で息を引き取り2、3日も経つと、ガスで遺体が膨れて汁が出る。テント内から凄まじい悪臭が広がるが、仕事や手続きに追われて処理する人がいない。遺体の処理は2週間後にもなった。(つづく、國分雪月記者)