またしばらく経ち、帰国手続きが始まった。
家族ごとにまとめられた書類がマニラの司令部に送られ、日本への引き揚げ日が決められていった。書類はいい加減に扱われていたためか、送られる港や日にちの違いで家族と離れてしまう人もいた。
運悪く半沢さん以外の兄弟は鹿児島県に送られ、父と半沢さんは別の日程で神奈川県横須賀市の浦賀港へ送られた。
まず八郎から下の兄弟が送られ、次に父が収容所を出た。最後に残った半沢さんが出る頃には、収容所内は閑散としていた。
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半沢さんが引き揚げ船に乗ってから5、6日後、甲板にいた日本兵が「富士山が見えたぞ!」と船内の日本人に知らせた。人々が急いで甲板に出始めた。
半沢さんもつられて外に出たが、初めて見た富士山がどういうものかわからず、人々が涙を流して喜ぶ様子を戸惑いながら眺めていた。次の日に浦賀港に着いた。11月半ばだったそうだ。
熱帯の国で生まれ育った半沢さんはまず日本の寒さに驚いた。港に降りると、並ばせられて消毒液のようなものを全身に噴きかけられた。
全身びしょ濡れになった半沢さんの体は寒さでブルブル震え、止まらなかったそうだ。
港の宿泊所の食堂で父を見つけることができた。その後、父が手続きして引き揚げ列車に乗った。半沢さんと父は福島県信夫郡鳥川村(現福島市)に住む父の兄、栄作さんの家に居候することになった。
栄作さんの家で再会できたのは三男の久四郎だけだった。
久四郎によると、福島駅から栄作さんの家まで馬車で向かう途中、八郎が久四郎に「もっとそっちにいけよ」とつっかかり、口喧嘩になったそうだ。しばらくするとなぜか八郎は静かになった。
天台宗観音寺近くの栄作さんの家の前で馬車が止まり、先に降りた久四郎は八郎が死んでいることに気付いた。
半沢さんの兄弟は船の上でも人に恵まれなかった。同じ引き揚げ船に乗っていた独身女性が兄弟全員の世話をすることになったが、彼女も兄弟の食事を奪って好きなだけ食べ、残りしか渡さなかったという。
水も不足しており、兄弟は甲板上の荷物に被せられたシートの上に登ってそこに溜まった雨水を飲んでいた。2、3歳と一番年少だった千四郎はシートに上れなかった。彼にも水を分ける努力をしたが、手から水がこぼれて上手く与えられなかったそうだ。そして千四郎は次第に衰弱していった。
到着した鹿児島の宿泊所では、フィリピンの収容所で世話係だった叔父家族に会い、「またお前らか、俺らは運が悪い」と嫌そうに言われたそうだ。千四郎はその後すぐに死んでしまった。
友栄は栄養失調で全身が腫れていた。鹿児島から福島までは列車で3日かかる。「福島までもたない」と医者に告げられ、そこで別れた。
父は栄作さんの家に着いてから寝込んで食事もできなくなるほど容態が悪化し、12月14日に亡くなった。(つづく、國分雪月記者)