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どこから来たの=大門千夏=(35)

 入学式が終わると近所の写真屋に行って記念写真を撮ったので、今、あの時の私の姿がよくわかる。母はどこから手に入れたのか、セーラー服と皮のランドセル、画用紙入れ、革靴、それにベレー帽まで用意してくれた。長女の入学にはことさら情熱を注いだようだった。
 小学校に上がってしばらくすると私はピアノを習いに行かされた。一カ月後は妹も習い始めた。祖母に連れられて、電車で毎週ピアノの先生宅に行く。車窓から見る広島の街は広々と大きく、遠く瀬戸内海に浮かぶ島々が見えるほどで建物らしい建物はなかった。人々は戦地から、疎開先から帰ってきたのだろう。少しづつ小さな家が建ち始め、大きな闇市が出来(ここにはありとあらゆるものが揃っていた)戦後の復興が始まっていた。
 二ヵ月もすると母は中古の大きなオルガンを買ってきた。「今にピアノを買ってあげます。今はこ
れで我慢してね」うきうきと嬉しそうに満足な顔をして言った。あの日の紺と鼠色の母の地味な着物姿が今でも鮮やかに思い出される。
 背丈ほどもある大きなオルガンで、どういうわけか鍵盤の向こうに大きな丸いボタンが三個付いていて、これを引っ張るとフガフガと空気の入ったような音がしていた。
 当時は小学校とてピアノはもちろん、オルガンもない時代だった。お正月、卒業式、入学式にはいつも教頭先生が我が家に見えて、此のオルガンを借りて行かれた。講堂は焼け落ちたままで、グランドの正面にある少し高いところにこのオルガンを置いて、全校生徒みなで国歌や校歌をうたった。そんな時代だった。
 母は私に夢を抱いた。今にピアノを…グランドピアノの前に座って弾いている娘の姿を夢見て、せっせとへそくりを始めたのだ。
 母の人生の中でも、これは大きな希望、夢の一つだった。戦争が終わり、家族全員が一人も欠けず再会できた事の喜びの後に、今度は長女への夢が母の心の中に、入道雲のように湧きあがっていた。三ヵ月もすると妹はやめてしまった。母は「アラ、もうやめるの?」と言っただけで特別な感情は示さなかった。
 しかし私も一年位してやめてしまった時は、母の落胆はものすごく大きく「まー」と言ったまま、それ以上何も語らず、座敷の隅に座ってじっとうなだれていた。私はその背中を見ながらビクビクしたが、一言も叱られなかったことでホッとし、これ以上毎日練習をしなくてよいので内心喜んでいた。母は「貴女にもう少し欲があれば…」そう言って数日間言葉少なく無表情に過ごしていた。今思うと物も言えないほど腹が立ち、怒る元気もないほどの大きなショックを受けたのだった。
 可哀そうなお母さん。
 そのうち感情が収まったのかヤケになったのか…これはずっと後に知ったことだが、母はへそくりを全部着物にしてしまったのだった。激怒のやり場だったのだろう。
 京都に、絹のピンク色の帯と(これにも刺繍がしてあった)この唐獅子の刺繍のある絵羽織を特別注文した。今、妹の家で何十年振りかにこの刺繍を見ると、あの戦後に金糸、銀糸、色とりどりの絹糸、これだけの材料をよく集めたものだと感心する。その上、さすが京都には、精巧な手仕事が出来る人がいたのだ。
 それ以後、母は二度とピアノという言葉を口に出すことはなかった。