「自力更生はもう無理ではないかと思う。それなら名誉ある撤退をしたい」――救済会顧問の大浦文雄さん(香川県、93)=スザノ市=は無念そうに、声を震わした。
サンパウロ市近郊のグアルーリョス市にある老人ホーム「憩の園」(救済会が経営)は、創立者・渡辺マルガリーダ女史の救済精神を貫き、同じ健康状態なら経済的に貧窮した人を選んで引き受けるという福祉重視の方針を60年に渡って続けてきた。だがついに限界に達した。
入園者77人に対して職員は99人もおり、毎月30万レアルもの赤字が発生。それを埋めるために、周辺に持っていた土地を切り売りしてきたが、もう土地はない。「伝統ある救済会を無残に潰すよりは、できれば日系団体に合併してほしい。合併できるとしたら援協しかないのでは」と大浦さんは考えている。
その通りだろう。
戦中に社会政治警察に拘束された日本移民を支援するために、1942年5月に発足した救済会。戦後移民の受入れや支援を目的に1959年1月、日本移民援護協会(現サンパウロ日伯援護協会=援協)が発足するまで、救済会はコロニアが一番苦しい時期に延々と移民支援をしてきた。
当時の書類を見直して驚いたが、1942年から1961年までの9年間に、生活費や物資を支援した貧困者は延べ1万4581人、世話をした養老者が延べ6517人、孤児が延べ1069人、精神病者が延べ521人。つまり1942年1月にブラジル政府が枢軸国に外交断絶を宣言し、1952年9月に戦後初の君塚慎大使が赴任するまで10年間、「在留邦人保護」という本来なら日本政府の仕事を、一手に引き受けてきた民間組織だった。
戦後移民が1953年に始まって援協が発足するのを受け、救済会は高齢化する戦前移民の問題に焦点を絞り、1958年4月25日に老人ホーム「憩の園」を開園した。その後いくつもの日系福祉団体が生まれたが、元祖は文句なしに救済会だ。
憩の園の紹介パンフには「2012年までに1156名のお年寄りが憩の園で生活しました」とあった。つまり1千人以上がこの施設で看取られた。経済的な問題を抱えた人を中心に、大変な数の移民を看取って来たのが憩の園だ。ここがあったから穏やかな余生を送れた人がどれだけいただろう。先週、本コラム欄に書いた「援協は、移民の最後を看取る事業を」の流れにある話だ。
大浦さんは「そんな施設だからこそ、皇族は3回もご訪問された。いわば〃コロニアの聖地〃といえるのではないか。合併したら経営は変わるだろうが、場所や建物、ドナ・マルガリーダの胸像などは残してほしい。それが名誉ある撤退だと思う。コチア産業組合が崩壊した後、創立者・下元健吉の胸像があちこちになってしまったが、そんな風になってほしくない」と願う。
渡辺マルガリーダ女史は96年3月12日に95歳で亡くなった。大浦さんは「その直前、お見舞いに行ったんだ。『明日、明後日に亡くなってもおかしくない』と医者から聞いていた。そんな瀕死の病床にも関わらず、逆に『救済会のことをよろしくお願いします。早く良くなってあなたを手伝いたいわ』と言ってくれ、ボクはとても感動した」と昨日のことのように思い出す。
その言葉に背中を押され、大浦さんは救済会総会に出席し、1967年から29年間も会長職にあったマルガリーダさんの後任選びが延々と難航している様子を見て、「じゃあ、ボクが専任理事をやるから、会長は田中福蔵さん、副会長は左近寿一(としかず)さんにお願いしたい」と注文を付けるとスパッと決まった。そして福博村の自宅に戻ったら、マルガリーダさんが亡くなったとの連絡が入った。「なにか不思議な縁を感じた」という。
最も伝統あるコロニア福祉団体が危機に瀕した時、どうすべきなのか――。110周年はけっして祝い事だけではない。厳しい現実も我々に突き付けている。
大浦さんの「いよいよ、コロニアは統合の時代に入ったのではないか…」との言葉が耳の中でこだました。(深)