本年はブラジルへの日本移民110周年であり、そしてまた世界人権宣言が採択されてから70年の記念の年であります。国際連合は、第2次世界大戦でなされた残虐な行為に鑑みて、1948年12月10日に人権条約の基礎となる宣言を採択しました。
数多くの日系アメリカ人や日系カナダ人へなされた強制収容は、1980年代末アメリカ、カナダの両国において損害賠償により、その誤りが認められました。
ブラジルにおける日本人移民や日系人の状況も北米のそれと異なってはおらず、蛮行の極みに達していました。当時の保守的な政治家により擁護された不当な制度は、政治的な迫害と人種差別を引き起こしました。
「ブラジル国民を構成する民族」(白人、黒人、インディオ)が当時の前提条件でした。そこから外れた民族の苦しみは、単に東洋人という外見だけでなく、心理的に非常に大きかったと言えます。
この当時の警察による暴力行為は処罰されないままとなりましたが、今日までその影響は多々認められうるのです。新国家体制(1937―1945)におけるヴァルガス大統領独裁政権の恐怖は、その犠牲者を沈黙させ、日本の文化的な民族アイデンティティーを荒廃させました。
その結果、日系社会の中では、政治的迫害や人種差別について、皆、自ら口を閉ざし、誰もその話題に触れず、抱く疑念も伏せたままという状態がつくりだされたのです。
長年にわたり、日本人移民は沈黙を選び、戦中戦後の痛ましい惨劇を葬り去っていました。公的な文献ではこの時期を「空白の期間」または「欠落した期間」とみなしています。
この間、政治的また民族的な問題は避けられ、新たな日系社会の基礎となるため、ブラジル社会に日本人や日系人がいかに融け込み馴染んでいくかのみが考えられるようになりました。
こうした考え方は2008年の日本移民百周年まで続きました。この年はブラジルが民主化されて23年目の年であり、「空白または欠落」の時期について多くの研究がおこなわれたのです。
その際立った研究文献の一つは、ブラジルにおける日本人及びドイツ人の強制収容所について書かれ、2009年に出版されたPriscila Perazzo著『Prisioneiros de Guerra – 戦争による囚人』です。
4年後の2013年10月10日、真相究明委員会はサンパウロ州議会において「1946年から1947年の間の日本移民の死と拷問」に関する公聴会をおこないました。これは、予期せぬ反響でしたが、英国のガーディアン紙で取り上げられ、「ブラジルの日系社会が過去の間違いに対し謝罪を得る」と報じられました。
真相究明委員会で取り上げられた重大な人権侵害への告発は、第2次世界大戦中の日本移民への、損害賠償のない、国の謝罪を要求する運動の必要性を促しました。
この謝罪要求訴訟は、2015年12月31日、法務省において正式な手続き(番号080039749/2015) が開始されました。
それ以後、人権侵害についての調査研究を進める動きが起こり、1943年7月8日に起きたサントス市日本人及び日系人6500名強制立ち退き事件が明らかになったのです。
2015年、ニッケイ新聞は、ジャーナリストの岸本昴一が書いたこの事件のルポルタージュについて掲載しました。1947年に出されたこのルポルタージュでは、日本人家族が24時間以内に家も家財道具も一切放棄し、強制立ち退きをさせられたという蛮行を描いています。この強制立ち退き令により、ドイツ人と共に、日本人はサンパウロの移民収容所に閉じ込められました。
2016年に、TV局ジョルナル・ダ・クルトゥーラは、当時を知る人の一人、森口イナシオの詳細で痛ましい叙述を入れて、この事件を取り上げました。
2017年、沖縄県人移民塾同人誌『群星』第3号にはこの事件についての真実が明言され、立ち退かされた人達の新たな証言が掲載されました。その叙述では、大人や老人、子供たちが苦しんだ悲劇が語られ、当時の警察の残虐さが述べられています。
国の圧政でなされた残虐行為が事実だとされるとき、また、残酷な暗い時代の記憶をあらわにするとき、これらの誤りを認めさせる運動を起こし歴史に残されるべき正しさを、声を大にして要求します。
人種差別の撤廃、知る権利、言論の自由、過去の人権侵害への正義の実践という、人権を尊重する民主主義国家を守るためには避けて通れない問題について真実を明言し、抑圧され閉ざされた声を代弁する役目を果たしましょう。
私たちは私たちの先人のため、道理にかなった正しさを求めているだけなのです。