その上、母の濃厚な愛情はいささかうっとおしかった。その分、妹たちは愛情不足を募らせていたわけだ。
親に一言も文句を言ったことはないが、心の中では反抗心が渦巻いていて、いつか知人のいない誰からも強制も束縛もされない自由を満喫できる街に行く。小学生の時から一人で決めていた。少し大きくなると地図を広げて、広島から遠いところ…そうだ東京が良い、東北は寒そうだ、北海道は歴史が浅い、とか勝手に考えて、大都会に住む自分を想像して楽しんでいた。誰も知らない人ばかりいる町は憧れだった。
でもそれ以外はおとなしい、お利口さんの私、両親の言うことは何でもハイ、ハイと返事する素直な、母の一番お気に入り、夢と希望を託された長女だった。
中学二年か三年生の時、何が気に入らなかったのか今、どうしても思い出せないが、ともかく腹を立てて家出した。本当に腹を立てただけではなく、一度経験してみたい、どんな気持ちか味わってみたい、周りがどんな反応を起こすのか見たいという、いい加減な興味本位の気持ちが多かったように思う。
授業が済むとまっすぐ広島駅に行き、切符を買って山口県光市の従妹の家に向かった。のどかな瀬戸内海を左手に見ながら従妹になんて説明しようかと考えたり、乗客の顔を一人一人見ながら、一つ所に生まれて育って生活して退屈しないのだろうか、どうしてこんな一生を送ることができるのだろうかと感心したり、不思議に思ったり、初めての一人旅は退屈することがなかった。
それどころか、汽車はこのまま空を飛んで、まっすぐ宇宙のかなたに行ってくれることを想像して心高揚するものがあった。駅に着いてから電話すると従妹はびっくりして、すぐに迎えに来てくれた。何か事情があると分かったらしく何も聞かなかったが、翌朝一番の汽車で母が迎えに来たのにはびっくりし、がっかりした。
帰りの汽車の中で母はずっと泣いていた。私にはどうして泣くのか全く見当がつかない。少し照れくさい事と、すぐに連れ戻されては面目をつぶされたようで面白くない。二?三日放ってくれたらいいものをと勝手なことを考えていた。
この家出は私に良き教訓を与えてくれた。
こんなに簡単に連れ戻されるのでは東京に行っても同じこと。もっと遠くに行かないとダメだ。――そうだ外国に行こう…ぜったいに日本以外の国に住もう。
これが私の移住の原点である。
あのころは移民を受け入れる国はブラジルしかなかった。どこの国も門戸を閉ざしていたのだ。でも私にとっては日本以外の国ならどこでもよかった。
若さとは残酷なものである。あれほどかわいがってくれた母の気持ちなどこれっぽちも思いやることなく、学校を卒業すると一人でブラジルに来、着いたその日からすっかりこの国が気にいってしまった。一度も日本に帰りたいと思ったこともなく、日本食を恋しがったこともなく、見るもの聞くもの新鮮で勝手な自由を満喫し、心からのびのびした気分を味わい満足の日々、好き勝手な人生を送らせてもらってきた。
しかし「あなたは長女です」と言われ育ったこの言葉は、体の中にまで染みついて、生涯にわたって私をなやましつづけたのも事実だった。
母は何時までも気持ちの整理がつかず、長女離れのできない人だった。次女、三女では穴埋めできないものがあったようだ。